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願い

 家出をしたことなんて、ましてや父の命令に背いて飛び出したことなんて一度もなかった。  俺が生まれた日に亡くなった母。  言葉を理解するようになった頃から多忙を極めるもどこか俺には冷たい態度を見せていた父。  広い宮殿が監獄のように感じ、毎日息をするのも辛くてただぼうっと生きていた。 「……っ、ぐ……」  遠く、遠く、どこか遠く。使いの仕事では通ったことのない穴やクラゲ道、沈没船を泳いでいた。突如、髪が重く感じ、視線をそっちに向けると、髪飾りが袋に絡まっていた。 「このっ!この、っ……!」  無理やり取ると花弁がヒラヒラと落ちていく。ゴミが溜まった砂場に。 (捨てちゃえ。捨てちゃえ、捨てちゃえ) 「こんなもの、こんなもの、こんなものっ!!」  ヒラヒラ、ヒラ、ヒラ。  顔も知らない。名前も知らない母。唯一、海の色と同じ髪色だと幼馴染の父は教えてくれた。  ヒラ、ヒラヒラ。  ゆっくりと落ちていく。花は跡形もなくなり、はだかになる。 「こんなのがあるから……」 (そうじゃない。これは母が残してくれた宝物) 「俺は父上に認められず……!」 (よく頑張っていたじゃないか) 「汚いんだ!!」 (……だから追放された) 『でも、凄く綺麗だったから』 『アストランティアって僕の誕生日の花でもあるんだ』 「……っ」  落ちた花弁を一つ一つ拾っていく。ヨレヨレになったり、汚れがついたりして形も無ければもう意味の無い花だったものだ。 「もう、こんなんじゃ綺麗なんて言われないのにな……」  もう会うこともないだろうに。会いたいけれどもう叶わぬ願いなんだ。 「………っひ……アステール……っ」  愛するヒトへの名を呼ぶも、きっと届かない声だと思っていた。こぼれた涙は落ちることなく、上へと上っていく。滑稽だな、なんて思いながら泣いていたその時、大きな人影が頭上を通った。  ゆっくり、ゆっくり、ゆらゆらと落ちてくるそれは。  白く、黒く、ふわりとした衣装。  とくとくと鼓動する心臓。  必死に泳いで近付き、横になってるそれを抱きかかえた。 (な、んだこれ……)  青紫の痣が顔にいくつもあり、目は潰れ、両手は胸元で拘束されている。  嫌な汗が流れ、閉ざされた目を何度も叩く。 「おいっ!おいっ!!アステール!」  深い海にも届く月光のせいか、顔色は青白い。酷い顔をしているのに、とても穏やかに眠っていた。 「起きろ!起きろ、アステール!」  体が冷たい。こいつ、体温高いはずなんだろう?ヒト、なんだろう? 「何、人形みたいにしてるんだよ!おい、笑えよ。花みたいに笑えよ。ドジしろよ、読書するんだろう?ご主人様に仕えているんだろ??」  ヒトのはずなのに羽よりも軽い体を持ち上げ、海上から顔を出す。辺りを見回すも地一つなく、ヒトの気配もない。 「ほら、流れ星だ!沢山流れてるぞ!願い事の仕方、教えてくれよ。なぁ、なっ……けほっ、けほっ!!」  乾いた空気に咳きが止まらない。 (苦しい、苦しい。でも、こいつは、ヒトは……海じゃ呼吸が……)  目眩すら起こし、これ以上留まっているのは無理だと本能が叫んでいた。 「アス、て……るっ…の、…うそ、つき……っ」 「……ステラ」  か細い。耳をすませなければ聞こえないほど小さく、息絶え絶えな声が聞こえたのは奇跡に近かった。うっすら開かれた目に生があまり感じられない。 「苦しい……よね。海にはいっ……て……」 「そんなことより、なんで、お前……」  どぷん。  強引にも十八の青年に引きずり込まれ、俺たちはエメラルドグリーンの海に入り込む。このまま沈んでいってしまいそうな感覚が怖くて仕方なかった。 「ぼ、くね……にんぎょ…う…やめ、れ、たんだ……よ?」  否定せずこんな時にでも笑うアステールを肯定するように頷いた。 「これからは、そとに……も、でら……れるし、いろんなとこ……いけ、るよ……」 「ああ。ああ、そうだな。そうだ。だから、だから、もう少ししっかりしろよ、なっ?」  茶色のチリチリした髪が左右に揺れる。胸から溢れ出した怒りや悲しみが喉にまでやってくるも、今は必死に唇を噛むしかない。  虚ろな目が少し上を向いた。何を見ているかすぐに分かる。 「アストランティア……捨て、たんだ……。だから、俺はもう、綺麗じゃない……」 「ううん……。君はかん、ちがい……してる、よ……」  目尻を下げ、力なく口角を上げる。 「ステラ、君は……どんな花よりも、……星……よりも、綺麗……だ」  体を起こし、鼻と鼻が近付く。滲んだ世界に邪魔をされても彼の顔をしっかり覚えておきたくて、必死に目を開ける。 「ぼくは……、きみに、あえて……、……あ……せ、だ……。い……て……」 こぽ。 こぽっ、ぽっ。ぽっ。  小さな口から出た泡が外を目指して上がっていく。  顔がぐったりとし、首の後ろを手で支える。  「なあ、な……嘘だろ……?置いて、いくなよ、馬鹿……」  恋人になってから何もしていないのに。お前ならなんとかして俺の故郷を知って貰いたかったのに。   「見てみたいんじゃなかったのか?嘘付き……」  いのちの灯火が消えた彼がもう口を開くなんてことはない。その顔はあまりに幸せそうに眠っているようで、キラキラとしていた。 (………っ!!)  彼を抱きかかえてうなぎ登りし、もう二度と見ることない星空に向かって叫んだ。 「今度は!!こいつと!同じ世界で!!生きていきたい!!」 胸元に当たる静かな波。腰に巻かれたバッグから小瓶を取り出した。 『お前は半端者だ。皆への償いとしてならせめてヒトの子一人くらいは……わかるな?』  逆さまにして全て飲む。顔が歪むほど苦くて喉が焼けるくらい熱い。しばらくすると、先まで骨が続いている尾が解けていき、二本の足が出来た。  呼吸するごとに体に痛みが走り、アステールとーー沈んでいった。  生まれてから一度も沈んだことなんてない。ばたつかせても上がることなく落ちていったことなんてない。  バッグに残ったナイフで彼の縛られた手を解放してやる。 (これで、本が読めるな……)  小さくて暖かい手に触れれない。繋ぎたくても麻痺した手では伸ばすことすら出来ない。  ああ、最期は、俺たちの最期は。 ーーステラ 「……っ!!」  思いっきり、星へと伸ばした。  緑に輝く綺麗な星へ一心に。  はるか、遠く、先へまで一緒に行きたいから。  ずっと、繋ぎ止めていたい。  骨格の違う指が絡み合う。ひんやりしていて、笑ってしまう。これじゃあ、どっちがどっちか分からないな。  こぽっ、こぽ。  息苦しい。ヒトってやっぱり海の中では生きられないんだな。  意識が薄れていく中、青い海に輝いた泡が広がっていくのが見えた。 そんな時でさえ、俺は 「ーーーが、乾いた……な……」

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