2 / 13

第2話

◇  レーニティアの挙動がおかしくディレックは腹の上にあるデュミルの脚を退けて起きた。末弟の身体が冷えないようにダウンケットの隙間を埋めた。 「レニー?何だよ…?」 「キュディが居ないんだ、どこにも」 「はぁ…?」  隣のベッドに長弟の姿はなかった。ダウンケットの盛り上がりもなく、綺麗に整えてある。 「何か思い悩んでるみたいだった。とりあえず大聖堂のほうを探してくる。すぐに帰ってくればいいが」  出て行こうとするレーニティアを呼び止める。眠りの深いデュミルはちょっとやそっとの会話では目覚める兆しもなかった。 「その体調(カラダ)でやめとけよ。オレが行く」 「もう夜更だ。子供が出歩いていい時間じゃない。デュンを頼む」  レーニティアは寄宿舎を飛び出して行った。窓の外にカラスが止まり、窓奥の保護者を見送ることも出来なかった。紅い目のカラスは寝室を覗き、ディレックを見つめている。まるで中に人が入っているような、人の意思によって操作されているような黒い鳥の動きを不気味に思いながらディレックは自身と揃いの紅い目を合わせたまま逸らせなかった。たちまちカラスの不気味な目は焚火のような赤みを持って光った。燦然と輝く星空から逃れて来たような闇夜に紛れそうな鳥は飛び立つ。ディレックの瞳も燃え上がるように光っていた。窓から後退り、デュミルが寝息を立てるベッドに膝裏を取られて尻餅をつくと、末弟は呻きながら寝相を変える。ディレックは全身が硬直し、そのままベッドに背中を倒した。弟にぶつかっても動けず、眼球ひとつ動かせない。天井の一点を捉えたままで、汚れひとつないまだ新しいその天井をスクリーンに脳裏にはエリプス=エリッセ方面へ走るレーニティアが鮮明に浮かんだ。息切れまで聞こえそうで、結局聞こえない。緩やかな坂を降りて海に浮かぶ街へ入っていく。薔薇の形の意匠が凝らされた柵の門を越え、エメラルドグリーンの川が入り組む都市に入った。景観が統一された生活感のない家々が並び、玄関を開ければすぐに短い橋が掛かっていた。庭はない。レーニティアは迷うことなくまるで目的地がはっきりしているかのように観光地を駆け抜ける。銀髪の青年が曲がった角の正面から銀髪の女と茶髪の男児が歩いていた。しかしまるでカモメにでもなった視界はレーニティアを追い、銀髪の女と共に歩く茶髪の子供から離れていった。  ぶつりと暗い天井をスクリーンにした光景が途切れる。人中が冷たくむず痒く、触れてみると鼻血が垂れていた。寝返りを打った末弟の手が容赦なくディレックの顔面を叩く。小さな手を避けてふらふらと寝室から出たがやはりひとり末弟を置いていくことが出来ず幼い寝姿の脇に腰を下ろした。横から頭を殴られるような衝撃が走り、再びベッドに倒れ込む。紅い目が見開き、窓から光の届かず暗い壁がスクリーンと化す。再び景観の統一された水上都市と疾駆する銀髪の青年が見えた。鮮やかな光と看板が特徴的で、煌びやかな衣装の女と寄り添い歩くこれといって礼服でもなさそうな男の組み合わせが多く見られた。男同士や女同士で肩を並べて歩く姿も多かった。レーニティアは店から伸びた腕に掴まれ、室内に引き摺りこまれる。  ディレックは鼻血を吹きながら起き上がった。しかしまた強烈な力によってベッドへと戻される。脳裏の光景は夜中に煌く海上都市を鳥瞰し、そこから勢いよくレーニティアが引き込まれた店へ急降下した。壁も床も関係なく突き抜け、レーニティアを間近で捉える。彼は脂ぎった中年男の腕に引かれ、草を編んだタイルの上に転がされた。  西の地方では人の身体に生魚を切ったのを乗せるらしい。  レーニティアを引き摺り込んだ男が言った。大きな部屋は一面、乾いた草らしきものを編んだ床がカーペット状に敷き詰められ、窓には細かく木材で仕切られた紙が貼ってある。レーニティアが起き上がることも許さず、暴れた彼の両手両足を他の男たちが押さえ付けた。リーダー格らしきレーニティアを引き摺り込んだ男は白い陶器を彼の口に傾けた。下卑た笑い声が聞こえ、レーニティアは徐々に抵抗を緩め、次第には藺草(いぐさ)の床へ四肢を投げ出した。男は彼に飲ませた陶器を小さな容器に傾け、透明な液体を舐めた。部屋には分厚い木板に乗せられた魚の切身が運ばれた。赤い鱗を持つ魚で頭部と尾が離れて飾られている。シルバーに縁取られた真っ黒な円い目は虚空を一直線に虚空を捉えていた。艶やかな鱗に埋め尽くされた尾までの間には淡い桃色を帯びた半透明な魚の肉が綺麗に並べられている。菊にも田菜穂にも似た鮮やかな黄色の花が飾られている。彼らは寄って集ってレーニティアを裸に剥くとそこに切身を乗せ始めた。陶器の中身を小さな容器に移して飲む中年男は段のついた部屋の端に腰を下ろし、半円形の道具を閉じたり開いたりして扇いでいた。  色気のねぇ野郎だな。その酢漬けで大事なところを隠すんだ。腹に並べて何が楽しぃ!  胸元から下腹まで2列に切身を乗せられたレーニティアの裸体をみて、リーダー格の男は半円形の道具を閉じ棒状にすると彼を差して怒鳴った。下っ端らしき男たちは手掴みで人数分用意されていたトングを用いて盛り付け直していった。  まったく最西端(にし)の侘び寂び愛好家どもは変態で困る。  リーダー格の男は枕ほどの大きさもない小さな台に頬杖をついて魚の生肉で飾られていく美丈夫をにやにやとしながら観察していた。胸と股間を中心に、食中毒を防ぐため一度酢を通した魚肉が乗った。重そうな腕が盛り付け人たちを退かそうとした。リーダー格の男は縛るように命じ、腋にまで置かれていく。臍に菊とも田菜ともいえない明るい色の小さな花が差し込まれる。  それでな、確か、その2本の棒で1対でな、それを器用に使って、飯を食うんだよ。  赤い鱗の魚の頭部と尾部が残された板の近くに無数の短い棒が入った籠が置かれていた。  魚姦クラブが無くなってからどうしたもんかと思ったが、これはこれで…  リーダー格の男は胸元で左右の布の端が重なる服装をしていたが、片方に手を差し込むと縦長の小さな袋を抜き取った。中には黄金に輝く2本の短かな棒が入っていた。太く厚い指が器用にその棒を動かした。  レニーたん…今度からチミを可愛がるとしよう。毎日お皿にしてあげるからね…  男は布を巻いたような下半身の中心を柔らかく揉み込むとレーニティアに近付いていった。胸の突起に重なった切身を黄金の棒同士が挟んで、下の肉粒を刺激した。 「ぅ…っ」  最西端にある地域で普及している食器・箸で切身を口に運ばれてもなお男は薄い色をした粘膜の頂を摘まんだ。レーニティアは拘束された腕を動かした。掌に小さな器を持たされ、その中に醤油(ソイソース)が注がれた。反対の胸の実を覆う切身も取られ、掌で揺れる器の中の調味料を通し男の口に収められていく。 「ん……っ、」  レニーたんはかわいいねぇ。薬味が取れないにょ。  箸が胸粒を挟み、2本の棒の間で滑っていく。レーニティアの頬が色付き、翠色の目が水膜を張る。 「ぁ……ぅん、」  股間を隠していた切身が動いた。縛られた足首が腿の動きを制限する。内股にも切身が乗っていた。  ホワイトソースでも食べたいにょ、レニーたん。  黄金の箸はわずかに浮いている魚肉を摘んだ。レーニティアの茎の一部が露わになる。魚肉を彼の性器へ巻き付け、皮膚に沿って動かしてから男はそれを口に入れた。感嘆の声を漏らし、レーニティアの下腹部にある器官の先端部に盛られた切身を狙った。最頂部に何度も生魚の肉を擦り付け、調味料も使わず口に放ると咀嚼をはじめる。 「あ……」  レーニティアは内股を擦り合わせた。そこに並べられたものが崩れ、黄金の箸はそれらを胸元に移した。そして根元を隠す生魚肉を巻き付けながら挟み、張り出た箇所まで数度往復させると滲んだ露に付けてから食べる。 「ん…っや、ぁ…」  美味しいよ、レニーたん。汗も美味しそうだねぇ…  額や頬の汗を切身で拭ってから食べていく。彼の股間は段々と勃ち上がり、浅い銀糸の草叢に敷かれた魚肉が微かにずれた。  これは何のお魚かにゃぁ?  リーダー格の男は愉快げに笑い、煌びやかな箸が存在を主張する肉を挟み、宥めるように撫で摩る。 「あっ、あっ、あっ…!」  レーニティアはがくがくと腰を動かした。盛られた生魚肉が揺れ、列を乱した。縛られた掌の中の調味料も器から溢れそうなほどに波を作っていた。細い対の棒は硬くなっていく雄芯を放し、切身を取ると先端の汁を奪った。 「あぁ…」  落胆の声を溢し、レーニティアは身を捩った。すでに自立した茎に薄く切られた魚の肉片が引っ掛けられていく。ゆっくりと滑っていく感覚に彼の眉間には切なげに皺が寄っていた。  これはみんなに残しておこうねぇ…いっぱい美味しいお汁を出すんだよ。  おい、ライスを持って来させなさい。ビネガー和えのやつをだ。  リーダー格の男は下っ端へ低く怒鳴るように命じた。木製の器入った米は冷めているようだった。男は大きなスプーンを潰したような形の平坦な道具を使って米を掬うとレーニティアの腋に乗せた。彼は身を引き攣らせる。米の山を慣らして固めると手掴みで食べた。  うん、美味ちぃねぇ。レニーたんの風味がするにょ。  腋に残った米粒を男は前のめりになって舐め取った。 「あ、ひっ…」  お前らも食え。汚ねぇ箸でレニーたんに怪我だけはさせんじゃねぇぞ。  リーダー格の男は一段高い場所に座り、枕のような台へ頬杖をついて食い散らかされていくレーニティアを眺めていた。  ディレックは鼻血を撒き散らすことも構わず勢いよく上体を起こした。末弟のことを気にしていられなかった。寝室を飛び出し、孤児院の門を出た途端、キュアッドリーと見知らぬ銀髪の女と鉢合わせる。 「キュアッドリー!」  ディレックの拳が、兄の鼻血に驚きを示した弟の顔面に向かった。しかし強い力に阻まれる。  暴力を伴う躾は感心しない。  怒ったような顔の眼鏡の女は特にこれという感情も出さずにディレックに言った。キュアッドリーは怯えきり、目を大きく見開いた。 「お前を追って、レニーが大変なんだぞ!」  ディレックは昂りを抑えきれず怒鳴った。緑色の目は冷たく長男を見下ろす。 「レニーが!?」  お前等は待ってろ。ガキが夜にほっつき歩くな。 「待てるもんか!」  一番下のガキは寝てるのか?  銀髪の女は冷たく寄宿舎を一瞥した。ディレックは弟と見知らぬ女を押し退けようとした。こうしている間にも、脳裏から離れないレーニティアは四つ這いにされ、尻にでっぷりした男の腰を押し付けられていた。 「ど、どうしよう…!ぼくのせいだ…ぼくのせいだ…」 「悪かったよ、お前は待ってろキュディ。デュンが寝てんだ」  キュアッドリーの肩を叩いてディレックは銀髪の女の制止を振り切った。女は溜息を吐く。  来い、クソガキ。どのみち放っておける案件じゃない。  銀髪の女に連れられ車に乗せられた。女はいくらかディレックを苦手がっている感じがあった。彼女は後部座席にティッシュを投げ込んだ。 「誰なのあんた」  鼻血を拭き取りながら投げかけた質問に女は答えなかった。ディレックは「無視かよ」と呟いた。車が発進する。銀髪の女は自身を公僕と言って嘲った。エリプス=エリッセは数分の場所だったが駐車場が遠くディレックは門の前で降ろすよう言ったが、運転席からドアにロックが掛けられていた。車を停め、銀髪の女とともに歓楽街へ入って行った。ディレックのみた光景と同じ街並みがそこにあった。道行く人はディレックよりも傍にいる銀髪の女へ奇異の目を向けた。 「ここだ!」  ディレックは先程夢に現れたばかりの店を発見すると銀髪の女に言うだけ言ってひとりで駆けていった。脳裏の中でみた大きな部屋があった。乾いた草の匂いが薄らとした。室内の中心には男たちが纏まり、その中にレーニティアが腰を突き上げ、太った男の腰にしがみついていた。 「あっあっあっあ…」  手叩きのような音がした。レーニティアの声が掠れて響く。男たちはディレックに気付いたが、どこかから逃げ込んできた子供としか見做されず、歯牙にも掛けなかった。 「んっんぐ…や…ぁんっ、」  見物人が来てるにょ、レニーたん。  芋虫のような指が銀髪を掴み、ディレックへ向けた。肥えた腹がレーニティアの尻に乗り、踊るように前後へ腰を振った。 「あっんん、あ…ディ、ル…っぅんんッ」  翠色の目は溶けているみたいだった。目が合っても彼は虚空を捉え、口を半開きにしていた。背後から冷たい手が伸び、目元を隠される。 「離せ…っ!」  我に帰りディレックは暴れた。ガキの見るもんじゃない、と言ったのは銀髪の女だった。女の指の間から茶髪が部屋に入っていく後姿が見えた。引き摺り出された外には厳つい服装の人たちが集まり、緊迫感が漂っている。  ここからは州局の仕事だよ。ガキは寝る時間だ。保護者の兄ちゃんは明日帰ってくる。 「やだ!」  ディレックは叫んでいた。銀髪の女が、クソガキが、と低く呟く。  弟2人はどうすんだ。長男なら我慢しろ。ガキでいたいなら一緒に来い。  少年は銀髪の女の緑色の目を見上げながら固まった。弟2人、特に怒鳴ってしまった次弟のことは気になった。しかしレーニティアのことも譲れずにいる。  お前がいたんじゃあの兄ちゃんも気が休まらんだろう。州局が責任を持って彼を守る。安心しろ。  女の手が肩に乗った。不思議な感触がした。レーニティアより柔らかく小さいくせ、キュアッドリーやデュミルと比べると硬く大きい。何より冷たかった。 「…分かった」  ディレックはそのまま銀髪の女によって孤児院へ帰された。 ◇  乾涸びたような手がレーニティアの小麦色の肌に薬用クリームを塗り込んでいく。罅割れた唇がレーニティアではない者の名を呼んだ。色濃く隈の浮かぶ目元が光り、濡れていく。銀髪を棒切れとそう変わりのない指が梳き、耳の裏を柔らかく掻いた。濁った青の瞳の上で目蓋が重げに上下した。長い茶髪の持ち主はよろよろと重厚なソファーで眠るレーニティアから杖をついて離れていった。()けて影を落とす頬が照る。  鼻血が枕まで落ちている。ディレックは腹にしがみつくデュミルの小さな手を放させてから鼻血を拭っているうちに隣のベッドが目に入った。キュアッドリーがまた居なくなっている。次弟を探しに向かうと彼は施設の玄関で蹲っていた。 「キュディ」  長弟もディレックの帰宅時点で寝てしまっていたためレーニティアのことを知らない。泣きながらそのまま眠りに落ちたらしくディレックはレーニティアが使うはずで本来は自身のベッドから布団を剥がしたのを覚えている。 「ごめんなさい、ごめんなさい…」  目元はまだ腫れていた。キュアッドリーはまた兄と揃いの紅い目を潤ませる。 「いや、オレのほうこそ怒鳴って悪かったよ。レニーは今日帰ってくる」  弟へ手を伸ばし、立ち上がらせた。キュアッドリーは涙を払うが、嗚咽は止まっていなかった。 「どうしても…ディルにカーバス祠官学校に、行ってほしかったの。どうしても行ってほしかった」  乾いた地面に滲みがひとつふたつと増えていく。 「はぁ?」 「カーバス祠官学校から案内、来てるんでしょ?ディルはいっつも我慢するから嫌なんだもん…」  ぐすぐすとキュアッドリーは鼻を啜った。ディレックは眉を顰める。 「あそこ寮だろ。嫌だよ」 「嘘だ!」  キュアッドリーは首を振った。ディレックは困り果て嘆息した。そうこうしているうちに門の前で車が止まる。よくみる車2、3台分ほど繋げたくらいに長さのある車だった。軽快な音を立て扉が上へ開く。テントウムシの羽の開閉に似ていた。中からは杖をついた茶髪の男がよろよろと出てきた。レーニティアも現れる。彼は幼い兄弟に気付くと走り寄って、2人を抱き締める。 「キュディ、良かった…何ともないのか?」  レーニティアは次男に頬を擦り寄せた。 「ごめんなさい、レニー」 「お前が無事ならいいんだ」  ディレックは背中を摩られながら保護者の肩越しに近付いてくる茶髪の男を見ていた。濁った青い目と視線を切り離せなかった。杖をつきながら、薄い手は震えている。ディレックを真っ直ぐ見つめながら退廃的な美しさのある痩せた顔に艶のない栗色の髪が靡いた。逆剥けた色の悪い唇が小さく動いた。知らない者の名を口にしているのが幻聴のように耳元で聞こえた気がした。 「あの人…」  誰。呟いていた。デュミルとともにスーパーマーケットでみた青年だった。誰からも返答はなく、大きな手が黒髪を撫で回す。杖が止まる。病的な容貌の青年は歩くのをやめてしまった。離れたところからディレックを見つめている。虚ろな目からは何も読み取れない。車からもう1人降りてきて、濃いグレーのスーツを着た銀髪に眼鏡の女だった。茶髪の青年を支えながら車へと連れ戻す。 「中に戻ろう。デュミルは寝てるのか?」  レーニティアの声は明るかったがどこかわざとらしくも思えた。横顔を見上げる。何かが日常と違っていた。昨晩みた裸体がまるで悪夢のようで、ディレックの中ではほぼ夢という扱いになっていた。 「そろそろデュミルを起こそうか。夜寝られなくなってしまう」  レーニティアはキュアッドリーに言った。ディレックは銀髪の掛かった耳ばかりを仰いでいた翠色の目がディレックを一向に見ようとしない。 「レニー?」  腕を引いてみる。翠色の瞳は狼狽し、一瞬だけディレックに流されたがすぐに逸らされてしまう。 「ディル…どうした?」 「別に」  レーニティアの声は動揺していた。ディレックは彼を見上げるのをやめてしまう。寝室に着き、デュミルはすよすよと腹を出して寝ていた。 「デュン、起きなさい」  幼い兄弟の中でも特に小さな背中を抱き起こし、保護者は揺らした。 「うんん、も…たべられんとよ…」  デュミルはへにゃりと笑って寝言を口にした。 「デュン…ほら、起きないと」  小さな腹を擽られ、きゃはきゃはと喚きながら彼は目覚めた。 「みなしゃん、おそろいで」  寝癖のついた髪を気にする様子もなくデュミルは兄たちを眺めた。青い目はまだ眠そうだった。  あまり運動は得意ではないキュアッドリーが底無しの体力のデュミルと外で遊んでいる。ディレックは夜遅かったのだからと長弟がボールを持って末弟を連れていった。寝室の窓辺から弟たちを眺めているとレーニティアがひょっこり部屋を覗いた。 「なんだよ」 「いいや…」  煮え切らない態度でレーニティアの目が泳いだまま寝室に入ってきた。昨晩はディレックが使っていたが普段ならば彼がデュミルとともに使っているベッドへ腰を下ろした。 「レニー」 「ディル」  互いの呼ぶ声が重なった。 「先、言えよ」  ディレックは保護者代わりで兄とすら思っている青年へ振り返りかけ、やめた。 「ディルが先に言ったらいい」 「何言おうとしてたか忘れた」  翠色の視線が注がれている感じがしてディレックは身を縮ませる。レーニティアは黙ってしまい、離れた場所の微かな物音までも耳に届いた。弟2人の声も聞こえる。 「…忘れてほしい」  ディレックはすぐに返事ができなかった。答えを間違えれば消していたはずのことを肯定してしまう。あれは夢なのだ。おそらく。 「何を」  レーニティアも返答に遅れている。弟たちの声が聞こえる。 「なんでもない」 「あ、そ」  ディレックは肩を竦めた。自然を装い部屋から出ようとしたがレーニティアは彼を呼び止め「まだお前の話を聞いてない」と言った。 「朝の人、誰?」 「州知事だと聞いている」 「へぇ」  興味のない質問を絞り出す。州知事というには想像より若く、何より健康面に問題がありそうだった。 「ディル」  早くこの空間から逃れたかった。レーニティアと2人でいられるというのに、外の2人に合流するか、買い出しに行くかしたかった。寝室を出ようとして再び呼び止められる。 「何?」 「2人には内緒にしておいてくれ。頼む」 「だから…何を?」  ディレックは同じことを返す。あれは夢だ。 「軽蔑したか」 「この話はやめようぜ」 「ディレック」  レーニティアはベッドから腰を上げ、ディレックへ(にじ)り寄る。怯えたような大人の顔に少年もつられる。彼は両膝を床についた。 「分かんねぇよ、そんなの」 「こっちに来てくれ」  ディレックは一歩目を躊躇った。レーニティアの目を見られず、窓から射す日の光に照った床を凝らす。 「ディレック…」  彼は両腕を開いていた。その中へ戻る。 「2人には黙っていてくれ。ああするしかないんだ。ああするしか…」  レーニティアの体温に包まれ、息苦しいほどだった。趣味ではないことくらいはディレックにも分かっていた。趣味でもよかった。もともと彼に自由な時間はない。時折買い出しに行く時に見る大人たちと比べてしまう。次弟も夜中に抜け出し、祠官学校に通えという。 「オレもやろうか」  冷えた声が出た。レーニティアをまだ発育途上の狭い肩に顔を押し付け、首を横に振った。 「だめだ。いいわけあるか」 「キュディが、祠官学校に通えって言うんだよ。オレは嫌だ。みんなと居たい」  またレーニティアは首を激しく横に振った。 「学費のことはなんとかする…!」 「オレには要らない。でもキュディは?デュンももしかしたら……それまでに貯めておきたいだろ」  ディレックはレーニティアの大きな身体を離した。翠色の双眸が歪む。 「だめだ。どうにかする。もっと俺が稼ぐから…そんなこと言わないでくれ。お前にあんなことさせられない…」 「でもレニーは我慢してやってるんでしょ」 「俺はもう大人だ。だから大丈夫だ。安心してくれ」  温かな手が黒い髪を撫でる。レーニティアは大人で、保護者で、父代わりで兄だ。並んで歩くにも埋めがたい差がある。重い荷物は彼が持ち、歩幅も違う。着る服の大きさも違う。食べられる量も違う。弟たちと同じ量しか食べず、末弟の残した物は彼が平らげ、美味しい物は三兄弟に分けてしまう。 「なんだよ、それ。オレたち家族だろ。どうしてレニーばっかり…」 「お前はまだ子供で、俺がお前にそんな真似させたくないんだ。仕事じゃなくて、お前の感情でああいうことはして欲しい。俺はお前の教育者にはなれないけど、これだからはしっかり教えておきたいんだ」  毛先を馴染ませていた指がまだ幼い輪郭を往復する。ディレックは紅い瞳を徐々に上げ、唇の噛み傷を認めた。そこに触れると彼は穏やかに笑む。 「なんで…」 「俺くらいディルを甘やかせないでどうする」  腑に落ちなかった。レーニティアとの距離は近いが、厚い壁に隔てられている。体温も質感も指はしっかり絡め取っているというのに彼には伝わっていないようだった。 「じゃあレニーは誰に甘えんのさ」 「俺は大人だから甘えなくていい。ありがとうな。これじゃ、ディルに甘えているな」  彼は困ったように笑う。キュアッドリーより幼く、デュミルより大人びて笑っている。翠色の目を見ていられず、ディレックから銀髪を抱いた。 「いいよ、それで。大人とか関係ない。レニーだって家族なんだから、甘えたらいいだろ」  不器用に少し硬い銀髪に指を潜らせる。胸元に彼の耳元が当てられる。 「お前たちの体温は落ち着くな。鼓動も」  ディレックの背には大きな掌が添えらる。 「またやるの」  胸元で銀髪が揺れた。ディレックの指をくすぐる。 「つらいなら、オレのところ来て」 「俺は幸せ者だな」 「そう?」 「間違いない」  翠色の瞳が上目遣いで長男を捉える。弟に対するのとは少し違う熱と微かな痛みが胸元に広がった。渦巻くような、彼を甘やかして優しくしたいという感慨はディレックを翻弄する。背に回された腕を取って、掌でしなやかな筋肉を摩る。 「もうカラダは大丈夫なのか」 「ああ」  ぐったりした姿は毒でも盛られたようだった。手首にはまだ縛られた痕がある。少し硬い肉感の掌は所々赤みが差し、かぶれているようだった。 「よくあそこが分かったな」 「…なんとなくだよ」  一瞬言ってしまおうか迷った。だが自身でも信じられない鮮明な光景を他者が簡単に信じるとは思えなかった。カーバス祠官学校の者たちには日常なのだろうか。初めての体験だったが彼の犠牲のもとに生活が成り立っている罰のように感じられた。弟たちにもいずれ見えてしまうのか。 「ごめんな」  突き放し、冷たくあしらってしまった。ただ時間が必要だった。彼のすることなら何だって許せてしまうだろう。 「ディルが謝ることなんて何ひとつない」  どたどたと荒々しい足音がして弟たちが戻ってくる。思わずディレックはレーニティアを突っ撥ねた。 「レニーちゃ、おれも」  デュミルが颯爽とまだ両膝をついているレーニティアに飛び掛かる。小さな脚が引き締まっている腰に巻き付く。 「ばりすいとうよ、レニちゃ…!」 「デュン、レニーが重いだろ」  ディレックは末弟をレーニティアから引き剥がした。キュアッドリーは3人を見つめていたが、どこか表情が暗かった。 「おいで、キュディ」  レーニティアは上の弟を呼び、従うキュアッドリーを抱擁する。次第に小さく嗚咽が聞こえ、ディレックはデュミルのとても小さな手を引いた。

ともだちにシェアしよう!