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第3話
◇
夕暮れ時に銀髪の女が施設を訪れ、キュアッドリーは身を竦ませた。
まだ言ってねぇのか。
角張った眼鏡の奥の緑色は容赦なくキュアッドリーを見下ろした。
「うん…」
じゃああたしから話してやるよ。兄ちゃん呼んできな。
「だれがきたと?」
デュミルが奥から現れ、キュアッドリーは弟から銀髪の女を隠した。
「ちょっと…お客さんだよ…」
弟は兄を擦り抜け、銀髪の女へ駆けていってしまう。険しい顔の女は男児を見て眉間の皺を深めた。
「あなただれね」
誰ってこともねぇよ。
銀髪の女は男児を見下ろす。表情に反して声音はどこか優しい。キュアッドリーは2人を気にしたがレーニティアを呼びに行った。ディレックに訊ねると、目的の保護者は仕事中だと言った。オレが行くよ、という兄を振り切れずもじもじとしながら銀髪の客人のもとに行く長男の後をついていく。
ガキに話すことは何もねぇぞ。
「レニーは取り込み中なんだよ。オレでいいだろ」
銀髪の女は不機嫌な顔で脇にいるキュアッドリーを睨んだ。デュミルは銀髪の女の隣でディレックに対する。兄は末弟の能天気な姿に溜息を吐いて緑色の目を迎えた。
「で?」
そこのガキ、州局 で働かせることになった。まずは読み書きから。ゆくゆくは秘書なり補佐なりになるさ、続けばな。
銀髪女はキュアッドリーを顎で差した。兄の驚きの目に、彼は慌てて弁明しようとしたが言葉が浮かばなかった。鼻で嗤った女が助け舟を出す。
悪ぃ話じゃねぇさ。カーバス祠官学校の案内を蹴って州局 で働くことに肯 いたんだ。給料 は弾むぜ。
銀髪の女は浅く焼けた手で金を表すサインを出した。ディレックはキュアッドリーをきつく捉える。兄の怖い眼差しに弟は一瞬で顔を逸らした。
「案内、来てたのか…」
「で、でもぼくはディルに、行って欲しいから…」
「オレは行きたくない!」
「おれいきたい」
デュミルが手を上げた。ディレックは半目で末弟を見る。キュアッドリーはすっかり肝を潰して銀髪の女と兄を見比べる。ほぼ決まっていた話が覆るかも知れない。
ま、どっちだっていいさ。そのガキの人生で、お前はお前の人生だ。兄のでも弟の人生でもねぇ。別に養育枠が埋まろうが埋まらなかろうがどっちでもいい。ただ、州局側の人間としては"助かる"だけだ。
女は陰険な笑みを浮かべた。キュアッドリーはディレックを窺った。兄は銀髪の女を射抜くように見ていた。
「キュディを働かせて、オレだけ学校に通えっていうのかよ」
学がありゃそれなりに仕事の口は見つかるさ。そこのガキにもそれなりの経歴が付くし、そのまま州局で働きゃいい。それまで扶持がないなら補助金も出せる。なら、このガキの面倒も看られる。
末弟の茶髪に女の手が乗った。
「な?」と話を理解していない幼児へ彼女は同意を求めた。うんうん、と理解してもいないくせデュミルは頷いた。
「ぼくは、カーバス祠官学校の入学案内、もう無いから。ディルが言ってよ。いつも眺めてたでしょ」
「ンだよ、それ…!」
止めんのも家族の務めだが、覚悟を呑んでやるのも家族の務めさ。
銀髪の女は「よく話し合っとけ」と言って帰っていった。
「またくると?」
デュミルは彼女を追おうとした。キュアッドリーが小さな肩を引いた。女は「またそのうちな」と言った。兄や自分に向けるよりも柔らかな感じがあった。弟を兄に任せ、駐車場へ向かう女についていく。外は橙色を帯びて暗くなっていく。施設の前の道路に沿った防風林の狭間から深く濃い海が見えた。潮騒が風の音に攫われていく。
「あの…」
兄の為じゃなく、手前のために州局 に来たっていい。家族全員でアイス食えるぞ。読み書きも教える。賄いも出る。教師も呼ぶ。健康診断も受けさせる。ガキ1人社会に出られるまでに育てるってのは楽じゃない。それはあたしよりお前たちのほうが肌身で感じてるんじゃないか。
女の保護者よりも黒みのある毛先が潮風に遊ぶ。キュアッドリーが何も返さないのを見てとると彼女は駐車場へ向かっていった。
「働きます!レニーとディルが反対しても…」
女は何も言わず立ち止まることしなかった。グレーのスーツが遠くなっていく。
室内に戻るとディレックは気難しげな顔をしてキュアッドリーをじとりと監視するように見ていた。
「レニーが反対しても、ぼくはあの人について行く!」
「好きにしろ」
兄は弟を連れて買い出しに行ってしまった。キュアッドリーはひとり残され、ぐすりと鼻の奥を濡らす。やがてレーニティアが戻ってきた。髪が半乾きで職場でシャワーを浴びてきたらしかった。
「レニー…」
キュアッドリーに気付いたばかりのレーニティアに抱き付く。すぐには話を切り出せそうになかった。
「どうした?ディレックたちは買い出しか」
保護者の腹で頷いた。困ったように笑いながら彼は次男の肩に手を置いた。
「喧嘩でもしたか」
話さなければならない。ディレックから切り出されることだけは避けたかった。キュアッドリーはレーニティアの服の裾を摘んだ。
「この前のことか」
茶髪を横に振った。
「ちゃんと仲直りしないと駄目だろう。お前たちは兄弟なんだから。どっちが悪いんだ」
レーニティアの声音は優しいが、その問いは鋭利だった。どちらが悪いのか。ディレックは家族のことを考えている。対して自分はそれは自分のことだけしか考えていない。意地を張らなければこうはならなかった。どちらが悪いのか白黒つけてみても認めたくなかった。だがキュアッドリーは眉根を寄せて口を開く。
「…っ多分、ぼく」
「じゃあ、しっかり謝まれるな?」
「うん」
銀髪の女の怖い顔を思い出す。乱暴な言葉で怒るだろう。叱るだろう。酷いことを言われるかも知れない。
「いい子だ」
キュアッドリーは唇を尖らせ、部屋の隅にいってしまった。銀髪の女に怒られるてしまう。帰ってたら兄に謝る。思い描いていた州局で読み書きを教わるという未来が塗り潰されていく。同じ紅い瞳が複雑な情感を持って部屋の隅のキュアッドリーを捉えた。キッチンからレーニティアが出てきて長男と次男を見遣る。
「なんだよ」
拗ねたような口調でちらちらと視線を配らせるレーニティアを兄は威嚇した。
「キュアッドリーが言いたいことがあるみたいだぞ」
「…キュディが?」
レーニティアはキュアッドリーを見た。謝ってしまっていいのか分からない。銀髪の女に怒られるのは怖いが、兄との関係に亀裂が入ることは考えられなかった。
「何か言いたいことがあるのかよ」
ディレックはレーニティアと買い物袋を仕分ける作業を代わりキュアッドリーの近くにやってきた。
「…その…、」
兄の威圧的な態度に謝る言葉も浮かばない。まだ迷っている。分かり合えない。互いの希望通りにはいかない。
「ディルに謝りたいんだろ?」
レーニティアが援護する。キュアッドリーは頷いた。
「キュディわるくないよ」
デュミルはべたりと床に尻をついて壁にゴムボールをぶつけて遊んでいる。
「どういうことだ」
「まだレニーにちゃんと話してないのか?キュディ、州局で働きたいんだってさ」
ディレックはレーニティアのほうを向いて大雑把に説明した。キュアッドリーの豊かな感受性はその言い方や口調に敵意のようなものを見出した。
「…キュディ」
レーニティアまでディレックと並んで次男を部屋の隅に追い込んだ。ボールが跳ねる音と鼓動ばかりが彼の耳には聞こえていた。
「キュディわるくないよ。ディルわがままだめだもん」
ぽんぽんとゴムボールが弾んだ。
「待ってくれ。話がまったく…」
「キュディおうちでたいばってんディルはいやがっとう」
デュミルは舌ったらずに喋った。
「読み書き教えてくれるって…そしたら、州局で働けるかも知れない。そしたら今よりもっといい暮らしだって…」
「キュディ!」
ディレックが叫び、レーニティアに制される。
「デュンにだってスクール通わせられる…国のお金入れても足りないんでしょ?ぼくが働いて、ディルは祠官学校通ったらいいじゃん。それの何がだめなの?」
「オレは別に祠官学校なんてどうだっていい!みんなで暮らしたいだけなんだ」
「キュアッドリー。俺の稼ぎが少なくて、お前たちにはいっぱい我慢させて、貧しい暮らしをさせているのはすまなく思う。だがな、まだお前は子供なんだ。今すぐに未来を決めなくたっていいと思っている」
キュアッドリーは2人に気圧 される。ボールがてんてんと床を転がる。レーニティアのつらそうな顔とディレックの複雑な眼差しを見てしまうともう逆らう気など起きなかった。
「………分かったよ……ごめん、ディル。ごめんなさい、レニー」
震える声で謝った。銀髪の女に伝える言葉を考えて、いてもたってもいられず明日自ら州局へ赴くことにした。
同行したがっているデュミルも連れて人工的な池に浮かんでいるような外観の州局を訪れた。受付で上手く説明が出来ずにいると銀髪の女が迎えに来た。弟を連れてきたことにいくらか呆れている感じがあった。案内された最上階はエレベーターが直接円形の部屋に繋がっていた。ガラス張りに重厚感のある皮張りのソファーやデスクが置かれ、両端には黄金に輝いているような布地のソファーが向かい合わせで4つ2組置かれていた。天井にまで絵が描かれている。孤児院にある本で読んだ城の中に似ていた。銀髪の女はよく日に当たるほうのソファーに促す。キュアッドリーはデュミルへ静かにしているように言った。
菓子でも食ってろガキ。
銀髪の女は2人の前にボトルと菓子を置いた。紙皿に馬鈴薯のチップスが開けられる。
「あの…」
女はキュアッドリーがすっと目を逸らした。隣の幼い弟に緑色の瞳が滑り、彼からもすぐ離れていった。彼女の視線を気にしながら膝を覆う布を握り締める。
で?ここまで来たってことはそれなりの答えが出たんだろう。
弟がチップスに小さな手を伸ばした瞬間、それを阻むように除菌ティッシュが置かれる。キュアッドリーは濡れた布に近い紙を出して弟の掌や指を拭いた。するとデュミルは勢いよく手をチップスの山に突っ込んだ。
「すみませ…」
いや、気にするな。今くらい元気にやっとけ。
銀髪の女はデュミルの大きな青い目を眺めていた。彼の瞳にはチップスしか映っていなかった。コップを持って来るように言って対面の女は席を立つ。
「デュン…お願いだから静かにして…」
「おいしい。キュディ、ばりうま~」
さくさくサクサク、音がする。デュミルには多く盛っているつもりでも足らない。買い出しの帰りに菓子を買うことはあっても毎日ではない。腹が減らないように動かずにいても息をするだけで身体は熱量を消費してしまう。
「デュンは…こういうの、もっと食べたい?」
「どっちでもい。キュディはなれてもかぞく。ディルはぁ、それがわかんない。こわいね」
銀髪の女が戻ってきてコップを置いた。デュミルの前にあるボトルを開けて2人に注ぎ、キュアッドリーの前にあるボトルを差し出した。そして兄に持っていけ、とぶっきらぼうに言う。
「…やっぱり、その……ごめんなさい。レニーに悪いから……ぼく等のために一生懸命働いてるのに…それをバカにしてるみたいだし…」
銀髪の女は陰険な表情のまま黙ってキュアッドリーの話を聞いていた。彼はひどく緊張して膝が戦慄いていた。隣では弟がひとりでチップスを平らげようとしていた。
残念だが他人の家の事情なら仕方ねぇな…
あっさりとした返答に拍子抜けした。女はまだ中身の入ったチップスの袋もキュアッドリーに押し付けた。
飲み終わるまでゆっくりしていけ。
そう言って彼女はかなり高価な感じのある革張りの椅子とデスクの脇の小さなデスクに向かった。
「キュディこれからもいっしょ?」
「うん。一緒だよ。これでレニーもディルも…」
「んでもキュディがまんぞっくしてないん」
油で汚れた指を舐めるため、弟の手をまた拭いてやった。
「レニーもディルもぼくもみんな満足ってわけにはいかないんだよ。どっちかが折れないと…残念だけど」
「きょうはどっちがおれたの?」
「折れたっていうか、成るように成った。でも、やっぱりちょっと、むずむずするね」
皿にはまだ半分、チップスが残っていた。小さな手がコップを両側から支え、ごくごくと気泡が浮かび黒ずんだジュースを飲んだ。
「帰ります。ご馳走様でした」
弟の手を引いて一声掛けると、無言のまま女は立ち上がり、エレベーターに乗せた。エントランスに戻ると受付の者に車まで案内された。
レーニティアが門の前で待っていた。断ってきた話をすると彼は喜ぶ。保護者代わりが満足している。キュアッドリーも倣って口角を持ち上げた。幼い兄弟の頭にレーニティアの両手が乗り、目線を合わせて屈んだ。デュミルは頭に乗った手を嫌がるように兄よりも艶のある茶髪を振った。
「レニちゃこれでまんぞっく。キュディは?」
レーニティアの翠色が注がれ、キュアッドリーは思わず鼻先を背けた。
「ごめんな」
「レニーもディルもこれでいいなら、いい…」
デュミルをボール遊びに誘い、レーニティアは仕事へ向かっていった。窓から兄が紅い瞳で見ていた。キュアッドリーはあまり遊びたがらない弟を付き合わせたが、普段と違う次兄からとうとう長兄のもとへ行ってしまった。庭に枝で絵を描きながら、これでよかったのだと自分に言い聞かせる。少し離れてしまった正門にデュミルの手を引くディレックが見えた。買い出しに行くらしかった。兄はまだ許してくれないようだった。睨むような目が恐ろしくて自ら近付けそうになかった。土が削られ、絵が増えていく。日が暮れ、影が伸びる。潮騒と車の音はすでに聞こえなくなるほど聞いた。微温いくらいの風が弱く吹いている。門が開き、来客を告げる。影が揺れ、片脚より先に棒が門から現れた。不安定な歩行は今にも転倒しそうだった。若い男のようだが重病の老人とも思えるほど肌や髪、何より雰囲気に若さを象徴するような瑞々しさがなかった。近くの街でみる髪が真っ白で腰も曲がった老人たちのほうが元気で纏う空気にも張りがあるほどだった。不穏な感じのある来客は建物を目指さず敷地の隅にいるキュアッドリーのほうへ歩いてくる。
「誰ですか」
色濃く浮かぶ隈と影を落とす頬は、話の通じる相手という感じがしなかった。厚ぼったくはないくせ重そうな目蓋から覗く青い目は濁り、薄い唇は色がなく乾いていた。小さく動いているが、声は聞こえなかった。よろよろとさらに距離を縮めた。絵本で見た魔憑き女のものに似た皮と骨だけの枝切れに見紛う指がキュアッドリーに伸びた。
「だ…れ…?」
キュアッドリーは縮みあがり、恐ろしく痩せた腕から後退った。身形は良かったが顔色や肌、髪の色艶からかなり退廃した様子の若い男はまた何か喋ったが息が漏れるだけだった。
「レニーのお客さん…?」
杖に軽げな体重を預け、さらに男はキュアッドリーへ近付いた。乾燥した掌に掴まれる。樹皮のような質感だった。
「中、入ろう」
老人のような青年の身体を支え、建物へ連れて行く。のそりのそりと男は付いてくる。デュミルを抱き上げるのとは要領が違ったが、弟よりも軽い気がした。潮風にさえ流されてしまいそうで、キュアッドリーは気を揉みながら介護する。若い男は呼吸とは違う息を漏らした。それは何かを話しているような感じで、しかし声は伴っていなかった。傷んだソファーに連れて行くと、背凭れに上体を預けるより先に座面へ横たわった。濁った青い目が対面にもあるソファーを凝視していた。
「大丈夫…ですか…」
キュアッドリーは元の孤児院にあったブランケットを彼の腰に掛けた。長い睫毛が伏せ、今にも眠らんばかりだった。キュアッドリーは困って、対面のソファーから寝に来たらしい客人を眺める。
「レニーは仕事だよ」
まるで目蓋で返事をするように彼は重げに瞬いた。
「おじちゃんは?」
青い目は閉ざされた。それから開く様子もなかった。玄関扉がノックされ、ガラスのドアには太った男が立っている。
レニーたぁん?今日はどうしてダメなのかなぁ~?
扉をノックしながら男は叫んだ。キュアッドリーは中年男を中に入れた。男はでれでれと表情を緩めた。
まぁかわいいでちゅねぇ。レニーたんは居るのかなぁ~?
大きく弾力のある手がキュアッドリーの茶髪を軽く叩いた。
「レニーは今居ません」
あれれ~、そうなのぉ?じゃあチミが遊んでくれりゅ?かわいいねぇ。名前はなんて言うの?
男はのしのしと奥へ進み、病人らしき謎の男が横たわるソファーの対面に座った。
かわいいねぇ。おじさんと遊ぼうねぇ。何して遊ぼうか。
男はキュアッドリーの爪先から脳天までを何度を往復して観察する。散らかったテーブルを片付けようとすると、デュミルの間食として置いておいた一房のバナナを男は手に取った。どかりと座った両脚の間にバナナを突き立てる。
ほら、剥いてごらん。
デュミルに用意した間食にキュアッドリーは手が出せなかった。ディレックも我慢している。レーニティアもまともに食べられていない。男の股間に立てられたバナナをじっと見下ろした。
剥いてくれたら500カルディアあげるよ。もっと新しいバナナが、食べられるねぇ。
「…ほんと?」
ただしお口で剥くんだよ。ここを折って、剥けるよね。
男はたまに食べられる腸詰のような指をバナナの端に残っている房を差した。
「…うん」
キュアッドリーは床に膝をつき、太った男の脚の間に入り込んだ。折れた房を噛み、頭を動かしてバナナの皮を剥いていく。
チミのおちむちむはもう剥けてるのかなぁ?いつかおじさんがしゃぶってあげるからねぇ。レニーたんほどじゃないけど、おじさんもとっても上手いんだよ。
500カルディアあればエリプス=エリッセで食べた増粘アイスを4人で食べられる。慣れない口の動きに少しの時間で疲れてしまう。バナナの甘い香りが空腹を誘った。朝食べたトーストはあまり長持ちしなかった。
食べて。少しずつ食べるんだよ、ゆっくり、ゆっくりね。かわいい…
男の厚く、ぶよぶよとした指が茶髪を撫でた。キュアッドリーはバナナを口に入れた。歯を立てる。甘い風味が鼻を抜けていく。500カルディアがあれば4人で増粘アイスが食べられる。そうすれば4人で出掛けられるかも知れない。500カルディアがあれば昼にも何か食べられる。500カルディアあれば夕食に1品増やせる。500カルディアあれば。バナナが短くなっていく。
レニーたんと同じくらい優秀だねぇ…おじさん今から予約しちゃおうかな。
キュアッドリーは口元を拭って立ち上がると皮を近くのゴミ箱に捨てた。500カルディア硬貨を受け取る。立派な金貨は少し重く感じられた。
レニーたんによろしくね。
太った男はキュアッドリーの髪や肩や尻を触り帰っていった。病人らしき客人はまだ寝ている。死んだのかと思って傍に寄った。息はある。病的な若い男はもぞりと動き、キュアッドリーの頭を撫でた。青い目は閉じたままで、手は艶の無さまで揃いの茶髪を撫でる。
「みんな帰ってきちゃうよ」
少し柔らかな樹皮という感じの掌に頬を触られる。若い男は何か言うか、音のような声が漏れただけで言葉になっていなかった。
「おじちゃん…喋れないの?」
青い目がゆっくりと開いた。濁った目が紅い瞳を窺い見る。
「バス停まで送るね。みんなに一応書置きしておかなくちゃ…」
キュアッドリーは紙に雑な字で書置きをする。反転したり字の形を成していなかった。読めることはできてもが書けない、意味が分からない。発音の分からない字の並びもある。バス停の絵と省略された地図を描いて、横たわったままの男を助け起こす。
「おじちゃん、どこから来たの」
男は東の方角を震えた指で示した。腕を持ち上げるのも重労働なようだった。手の甲には骨が浮かび、緑や紫の血管が透けていた。
「じゃあ州局方面だね。バスの人に言わなきゃ」
ソファーに立てかけた杖を渡し、ゆっくりゆっくり正門を目指した。
◇
デュミルは長兄の腕を引っ張った。険しい表情が緩んで末弟に向けられる。
「なんだよ?」
「なんでキュディとはなさないん?」
ディレックはあからさまに不快な顔をする。
「色々あんだよ、大きくなるとさ」
兄の足は速くなる。繋がれた腕がぴんと張った。
「キュディまんぞっくしなかった。レニちゃもディルもまんぞっくしない。だれもまんぞっくしない」
デュミルはふるふると首を振って足を止めてしまった。ディレックは反動に片足を投げ出す。末弟はスーパーマーケット前の大きな駐車場で停まったバスから降りてくるカーバス祠官学校の生徒たちを眺めた。
「おれたのキュディ。ぼっきぼき!キュディぼっきぼき。だぁれもまんぞっくしない」
「元々誰も満足しないんだ。ごめんな、デュン。お前も満足できないよな」
カーバス祠官学校の制服を見ている紅い瞳をデュミルを仰いだ。
「働くのはオレだよ。キュアッドリーは頭がいいからな。トレゾーロ工科大とか行けるんだろうな」
ジーベントレゾーロ工科大学はディレックが知っている中で最も有名な大学で、彼の中では頭脳明晰の代名詞といえるほどだった。
「でもキュディ、スクールいけてなかと。みんなスクールいってる。キュディずっとおうち」
デュミルの言葉にディレックは顔を背けてしまった。互いに黙ってスーパーマーケットの強い光の中に入っていく。山積みになった野菜が電球のように光り輝いていた。ディレックは難しい顔のまま食材を最低数カゴに入れていく。店内はカートが行き来し、親に連れられて菓子をねだる声や友人と話しているらしき子供の会話が聞こえるというのにカゴを下げる幼い兄弟2人はよく目立っていた。買い物を終え、今晩はナスの入った揚げ肉団子になった。バスに乗って住処に帰る。バス停から降りた帰り道でキュアッドリーと会い、彼は何かもごもごと説明したが、デュミルが長兄から次兄に甘え始め、話が途切れる。孤児院に戻るとレーニティアはまだ帰っていなかった。すでに空はオレンジ色を奪われて暗くなっていた。この時間帯なら普段は帰ってきていた。また外には星が現れ始めている。ガァー!ガァー!とカラスが大袈裟に鳴いている。羽ばたく音がして、数羽の黒い中型の鳥が庭へ降りた。目が紅く光っている。
「レニー…」
顔面を殴打されたのかと思うほどの重い衝撃に立ち眩み、後退る。地面に点々と赤い雫が落ちる。眼球が空へ吸い込まれるようだった。潮騒が耳鳴りに消される。星空をスクリーンに脳裏でレーニティアが現れた。トイレの個室だった。便器の前で隣の個室と共有している壁に尻を向け、その対面の壁に両腕をついていた。壁に臀部を振る。引き締まった尻の窪みからは人の肉に似た色が見えた。レーニティアはその人の一部らしきものを何度も腰を激しく前後に動かし、体内に受け入れていた。ディレックの耳を覆っていた水が混じったよう雑音が消えていく。壁の軋みと押し殺した保護者の呻めきが聞こえる。やがて彼は天井を仰ぎ、がくがくと震えた。眉間に深々と刻まれた皺と潤んだ翠の瞳、濡れて光り噛まれて歪む唇は苦痛ともいえない憂悶を浮かべていた。腰が壁から離れ、尻をぶつけていた壁には何もなかった。ただ穴が空いている。レーニティアは腰を突き上げたまま下半身を痙攣させ、そのうち個室のドアの下から畳まれた紙幣が差し込まれる。数枚入っている。虹色に照るその紙幣は1クオーレ札で、それが最低でも3枚は束ねられているようだった。1ヶ月と半月弱の食費相当だった。レーニティアは便座に向けて尻を弄る。時折、掠れた声を出し、体内に指を入れていた。ペーパーで拭い、便器の中は少し煩く渦巻いていく。
『ディレック!』
個室トイレを出て行くレーニティアの姿が消え、視界には星空と長弟の姿があった。掌の砂利の感触。微かに遠くなった月と星空。逆光するキュアッドリーの顔。
「鼻血…」
「悪い。すぐ戻る」
「ダメだよ!寝てなきゃ…」
弟に立たせてもらい、辺りを見回した。カラスはいなくなっていた。
「まだレニーも、帰って来ないし…」
「レニーは夜まで帰って来ないかもな」
キュアッドリーは訝しんだが、ディレックは鼻を押さえながら弟を中へ促す。遠目で見ていたデュミルがティッシュを抱えて駆け寄った。応接用に置かれているソファーに座らされる。
「少し休んだら晩飯作るよ」
「ぼくが作るから休んでて」
キュアッドリーはキッチンに向かい、デュミルもついていった。
「デュン、ちゃんとお兄ちゃんを看てられる?」
「うん、おれディルみてられるとよ。きょうはおなすのポルペッティ。キュディがすいとうね」
「ナスが安売りしてただけだよ」
キッチンから聞こえた会話に口を挟む。末弟がやってきてソファーに乗り、ディレックの顔がじろじろと見ていた。
「レニちゃきょうおそいね」
「先に寝てような。これからはオレと寝よう。レニーは疲れてるから」
「うん」
長弟とは違い栄養の届いた髪を撫でようとして止めてしまう。手が鼻血で汚れている。頭の鈍痛に身を任せ、ソファーに体重を預けた。キッチンから聞こえる家族のたてる生活音に安堵と、そして不安が残った。
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