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第4話

 広い部屋にはかなり豪奢な調度品が並べられ、天井ではシャンデリアが虹色の星を放って煌めいていた。黄金めいた照明の下には部屋の雰囲気に似合わない、白地に黒斑の耳や尻尾を付けた銀髪の青年が四つ這いになって少年の頭に跨っていた。首で鈍く光る鈴が揺れている。  牛さんミルクの出悪い~。  レーニティアの脚の間で仰向けになっていた子供が言った。大人の胴体の影で子供がまた後頭部や背中を打ち付けるように動いた。  こっちのおっぱいは出ないの~?  ソファーに座っていた女の子が出てきて素肌の晒された背中に乗り、レーニティアの両胸に手を回した。彼は小刻みに震えた。 「ぁ…、ぁっぁ、」  牛さんにしては痩せてるってママが言ってたから、僕のミルク飲ませてあげる!  3人目の子供が現れ、レーニティアの頭の前に立つと半丈のズボンを下着ごとずり下ろした。黄金を帯びた光に微かに染まる銀糸を鷲掴み、下腹部を押し付ける。  いっぱい飲んで大きくなるんだよ。  レーニティアは10代前半といったくらいの体格に見合った陰茎を口に入れた。銀髪が前後に揺れる。鈍い鈴の音がした。彼の下半身を見上げていた少年が彼の影から出てきて布製の尻尾を抜いたり挿したりした。引き締まった双丘からわずかに伸びた尻尾は無機物のようで丸みはあったが螺旋のような凹凸があった。容赦なく先端部が異物になっている尻尾がレーニティアの後孔に抜き挿しされる。  牛さんはこうするといっぱいミルク出すんだよね! 「おっ、おっ、おんっ、んんっ…ッ」  腰をゆるゆると振って少年の性器を咥えている頭が止まった。黒ずみながらも高価な感じのある絨毯にどちらのとも分からない体液が滴った。尻尾を動かす反対の手がその下方にある器官から搾乳を試みる。小さな指が輪を作り、長く太く血管の浮かぶ突起を扱いた。 「あひっ、あっ、ン…!」  斜めりながら絨毯を向いている(すもも)のような形の部分からとろとろと透明な蜜が落ちていく。少年の手が無邪気に牛の乳搾りに励んでいる。 「あっあっあっ」  背中に乗る少女も人の身形をした牛の胸部から乳搾りをしようと肉粒を柔らかげな指で挟み、引っ張った。 「ぁぐぐっ、んん、」  僕のミルク飲んで…いっぱい大きくなるんだよ…  口内に腰を突き入れる少年は息を荒げてレーニティアの喉奥を穿つ。猫のように、しかし苦しげに喉を鳴らし、銀髪が左右にぶるぶると震えた。開き放しの唇から唾液や腺液が溢れ、絨毯のシミをさらに増やしていく。腰を前後に振りたくる少年はいきなり動きを止めると、また徐々に運動を再開する。レーニティアの喉が空気を漏らしながら引き攣り、首の中心の隆起が上下する。少女の手がつまらなげに何も出てくることのない胸の頂を捏ね繰り回して、落胆の声を上げる。尻尾を抽送する少年が彼女を呼び、けらけら笑った。  こっちはすごく張ってるからもうすぐ出そうだよ。スプーンを持っておいで!  背中に乗っている少女は満面の笑みで部屋から消えたが、金色のスプーンを片手に舞い踊るように走って戻ってくると、レーニティアの床を向いて翳る下半身がよく見えるように屈み込んで座った。張り出た箇所を掌で包まれ、親指と人差し指の輪は茎を擦る。双玉が緊縮する。下腹部で授乳する少年のものを舐めて清めるのをやめ、首を仰け反らせる。 「あっあぁ…イく、」  喉が晒され、狼の遠吠えのように背中が反る。傍にいた少女が脈動を始める雄の前に金色に輝くスプーンを構えた。少年の搾乳する手付きが激しくなりレーニティアの絨毯についた膝が大きく震え、腿が痙攣している。少年の片手は後孔に尻尾を模した無機物を嵌め込むように捻り入れる。 「あひぃぃっぁぁっ!」  腰から下を膝をバネに跳ねさせ、上半身が崩れ落ちた。銀色の毛先が煤けてもなお価値のありそうな上質感のある敷物に散る。  牛さん動かないで!  少女の手が引き締まって窪みのある尻を叩き、腰を雑に掴んだ。レーニティアは全身を引き攣らせた。幼い手に止められても腰はかくかくと何度も繰り返し折れる。共に揺れる腫れ上がった実の亀裂から白い粘液が垂れ金色のスプーンに乗った。  いっぱい獲れたよ、お兄ちゃん!  少女は喜び、粘性のある牛乳を盛ったスプーンを誇らしげにどこかへ走り去っていった。少年は床に四肢を投げ出した牛を撫で摩る。もう1人の少年が空のグラスを持って質量を失っていく牛の器官から搾乳しようとした。少女もコーヒーともココアとも判断の付かない飲物を金色のスプーンで掻き回しながら、パパ!と叫んで美味しいコーヒーを淹れたのだと自慢げに言って駆けていった。 『ディル~、ねとっと?』  柔らかな手がべたべたとディレックの顔を触った。目を開くと小さな掌が赤く染まり、驚きに跳ね起きた。末弟はきょとんとして長兄を見ている。怪我をしているわけではないらしかった。 「さいきんはなぢおおか」  真っ白なシーツがはためく。晴れやかな日差しと潮風。外だった。記憶を辿る。物干し竿に留まったカラスに気を取られたのは覚えている。末弟の汚れた手を掴み、宿舎入口の真横にある水道で洗わせる。 「キュディは」 「なかにいる」  ディレックは安堵し、洗濯物を干しに戻る。シーツをスクリーンに、再びレーニティアの羞恥を煽る姿態が現れる。室内犬を隔離しておく柵のようにも、温暖な地域でありながら孤児院にも置かれているストーブ用の柵にも思えた、大人が入るには小さい箱形の柵に両手両足を開くように繋がれ、陰部にはコードの繋がった筒状の無機物が彼の器官を覆っていた。コードがヘビのようにのたうって、筒状の物が器官に沿って上下する。小窓の中では膜が彼の茎に張り付き、筒状の無機物の動きに合わせて膜が細かく(たわ)んだ。  今日もいっぱいレーンの赤ちゃん殺ちまちょうね。  猫撫で声は女のものだった。小窓付きの筒状の無機物は勢いを増す。華奢な柵はレーニティアと連動し、崩れ落ちそうなほど揺れた。ヘビ同然のコードか止まり、レーニティアは沈黙した筒状の無機物を突き上げる。中高年を思わせる趣味の指輪だらけの、いくらか張りを失った手が柵を掴んだ。紙幣が2枚ほど差し込まれる。  お金をみたらガクガクしちゃうカラダになりゅ?  コードが再び生命を吹き込まれ、肩で息をしていた彼は激しく腰を跳ねさせた。脆げな囲いが内側に向かって崩れそうだった。レーニティアは凄まじい痙攣を繰り返しながら、がくりと首を後ろへ倒した。身体は軸を失い、ただびくびくと静止することなく柵を破壊せんとしていた。  今日は出が悪いねぇ。頑張って来たの?じゃあご褒美あげなきゃねぇ…レーンはいい子だからねぇ、これで美味ちいものを食べて、濃い赤ちゃんいっぱい出ちて殺ちゅんだよ。  柵の中に紙帯付きの札束が落ちた。拘束が解かれていく。レーニティアはぐったりしながら柵から這い出る。  ほら、()んだ赤ちゃん食べなっ!5クオーレだよ。  犬用の受皿がレーニティアの目の前に置かれ、彼はそこへ鼻先を落としていく。  ディレックは(しゃが)み込んだ。洗濯物を干すどころではなかった。ただの想像に決まっていた。息苦しさを呑み込んで活動を再開する。衣類の端を伸ばしている時に視界の横に黒いものが入った。庭に大量のカラスがいる。ディレックを見つめ、紅い瞳に捕まった。しかし敷地の門が開き黒い鳥は一斉に羽ばたいた。3本の脚が重げに歩く。後ろで束ねられた栗色の髪が潮風に靡くが(しな)びている感じがあった。転倒しそうな危なかしさがあった。ディレックのほうへやってくる。死期の近い老人のような青年は頻りに何かを呟いていた。聞き覚えのない人名が風に乗ってディレックにも届いた。濁った青い目は均されて硬い地面を泳ぐ。洗濯物が柔らかく薫った。  見つからない。  ディレックは立ち尽くす。杖に導かれる男は洗濯物に閉ざされる。  どこにも居ない。  布がはためく。潮騒に車の走り抜ける音がした。  すまなかった。  門の上に停まったカラスが不気味に鳴いた。仲間に呼びかけるように悲鳴じみて空に響き渡った。 「なんなの、あんた…」  ディレックは興味の有無や疑心など関係なく、ただそれしか言えなかった。男はもう一度謝った。だがディレックはそれが自分に向けられたものでないと気付いてしまう。小さな足音は宿舎へ向かっていく。ディレックは数テンポ遅れてから反応した。スーパーマーケットで末弟を捕まえていた姿を見ている。まるで誘拐しそうな雰囲気だった。足を痛めているらしき歩き方ではなかったが、痩せ細っている身体の重みにさえも支えられていないような感じがあった。男は杖を止め、宿舎を仰いだ。彼の姿は日の光に消されていく儚さを醸している。ゆっくりと踵を返し、カラスは門の上から退廃した青年が来るのを監視していた。 ◇  兄は体調が良くないらしかった。キュアッドリーはディレックの様子をそう判断できなかったが、デュミルは次兄と買い出しに行きたがり腕を引っ張る。しかし兄はそれを許さず、末弟を連れて出掛けてしまった。キュアッドリーには、ディレックは長弟と末弟が2人きりでいるのを避けたがっているような気がしてならなかった。兄はデュミルをまだ意思のはっきりしない子供だと思い込んでいる節があるようだった。そのような幼児が長兄ではなく次兄に肩を持ったことに疑いを抱いているに違いないとキュアッドリーの考えは深みに嵌まっていく。玄関扉が叩かれ、ガラスの奥にはキュアッドリーの客がいた。飛んでいくと、太った男は柔らか笑ってキュアッドリーにフリルの付いたピンク色のワンピース渡した。  今日はこれを着て、いっぱい遊ぼうね。ドリちゅんは何を着ても似合うからねぇ。おじさん、寝ないで考えてきたんだよ。  大きな掌が艶のない茶髪を撫でる。保護者代わりのて肉感よりも最近では馴染んだものだった。キュアッドリーは頷いて早速と着替えた。下着まで付いており、白地に鮮やかなグリーンの縞模様が入ったパンツは普段履いているものよりも布が薄く、面積も小さかった。前の膨らみが浮き上がってしまう。腿に白地のフリルに扇がれた外気が通り抜け、慣れない冷感と質感を与える。エプロンのようなピンクのワンピースのリボン部分が背中にあるため縛れずにいると、客の男はでれでれと笑いながら太い指で器用に縛る。幅のある紐が腰を締め付ける感覚は抱擁に似ていて心地が良かった。レース付きの靴下とヒールのあるエナメル靴へ足を入れ、指示の通りにソファーに乗る。背凭れに上体を預け、腰を突き上げた。裾を捲り、対面のソファーに座る客へ下着を見せる。  いいねぇ!とってもいい!最高だよ!生きてるだけでも国宝級なのにねえ!  体勢を変えるよう言われ、客と向かい合わせになると膝を大きく開き、裾を上げるように言われた。鮮やかなグリーンの縞模様の歪みがキュアッドリーの前の発育途上の膨らみを強調した。プリントのない白地の繊維からは薄らと肉色が透ける。指示の通りに人差し指と中指で膨らみを挟み、布が張られ、さらに色と形を匂わせる。  尊いねぇ。ドリちゅんもいつかおじさんみたいに、ここを熱くしちゃうんだよ。大人になっても可愛いんだろうな、ドリちゅんは。  男は布を押し上げている股間を手でぐりぐりといじった。小走りを終えた後のような息切れが聞こえた。  さてさて、じゃあそのおパンツを1クオーレで買うよ!全部で6クオーレだよ。かけがえのないドリちゅんの唯一無二の試着済みおパンツなんだから!  キュアッドリーは肯いてパンツを脱いだ。客は小さな布を引っ手繰るように奪って鼻を埋めた。  いいニオイがする!いいニオイがするよ!尊いニオイだね!ドリちゅんの頑張る優しい子のニオイだねえ!  客はズボンを下ろした。ぶるんとキュアッドリーにもある器官が彼には見たことがないほど腫れ上がっていた。驚きに言葉が真っ白になる。客は先程売ったばかりの布で痛々しく赤い患部を包んで摩った。  ドリちゅん!さあ、おじさんにかわゆいおしりを見せるんだよ。何もしないからね、ただ見るだけだから。こんないい子に酷いことなんてできるわけないよ。  怒っているような感じがあった。キュアッドリーは言われた通りに再び背凭れに腕をついてスカートを捲った。腰を前後に振るよう言われ、フリルが肌を叩く。  ドリちゅんのでかちんぽでおじさん、ずぽずぽされたいお。レニーたんのおしりまんこぐっぽぐぽしながらドリちゅんのでかちんぽでがん突きされたいおぉ…  客は何か要求しているが、訳が分からなかった。レーニティアへの伝言にせよ、意味が通らないのでは伝えられない。様子のおかしくなった客にキュアッドリーは不安を覚え、目を合わせていられなくなってしまう。小さな物音と唸り声が恐ろしくなる。客はぐおおと呻き、キュアッドリーを呼んだ。  とっても気持ち良かったよ。ティッシュをもらってもいいかな。拭いてくれたらここに300カルディアだよ。お菓子(かち)が食べられるよ。賢い子には沢山ご褒美しなきゃ。  追加の300カルディアでデュミルにアイスを買ってあげられる。それ以外は貯金だ。瞬時に仕分け、ティッシュを手に取り膿らしき白いもので汚れている腫れ上がった陰茎を拭いていく。痛いのか、客は呻いた。びくびく腰を動かし、ティッシュ越しに掴んでいるよう言われた。ティッシュの中を痛々しく腫れて赤らむ棒状の器官が上下する。客はまた曇った悲鳴を上げ、手の中の器官からびゅるると膿が噴き上がる。生々しい匂いがした。  ああ、ごめんね。怖がらせちゃったねぇ。でもドリちゅんも大きくなったらこうなっちゃうんだよ。レニーたんだってここを大きくしてハァハァしちゃうんだよ。ドリちゅんもだよ。ほら、自分のを触ってごらん。もう白い小水(ちっち)は出るのかな?そしたら美味しいチキンを届けるよ、おめでたいことだからねえ。  客の手がフリルの裾を捲った。にやにやと笑って分厚い財布から紙幣を数えている。  ほら、お(また)でしっかり挟むんだよ。ドリちゅんはよく出来る子だろう?  札束をキュアッドリーの膝に挿み、腿を撫でていく。膿らしき白濁した粘液で濡れた小さな布を自身のパンツの中へしまって客は帰ろうとしていたが、他にも来客があった。太った優しい男以外にキュアッドリーに客はいなかった。灰色といえるほどの顔色の悪い茶髪の男が杖をついて佇んでいる。枝切れのような指がキュアッドリーの客を向いた。途端に黒い羽根と紙幣が散る。客が消え、服だけ残った。玄関にはカラスが外に出ようと羽ばたく。病人同然の若い男はやはり、絵本でみた魔憑き女だった。キュアッドリーは毛を逆立てる。カラスは耳を劈くように鳴いた。 「やめてよ!戻してよ!」  キュアッドリーは杖をついた病人に詰め寄った。稼ぎも温もりも消える。デュミルに菓子を買えなくなる。撫でてくれる手がなくなる。話す相手がいなくなる。人を豚に変える魔憑きの女の腕を掴んだ。服でいくらか誤魔化されていたが、外観以上に腕は細かった。 「おじさんを元に戻して!戻してよ!」  カラスがガァガァと鳴いた。紅い石を嵌めたような目がキュアッドリーを捉えた。 「おじさん…」  カラスに手を伸ばす。てんてんと跳ねて逃げていく。髪を撫でる手は翼になっている。名を呼び、優しい言葉を吐き事あるごとに褒めてくれる唇は嘴に変わり、紙幣の変わりに羽根を置いていく。ディレックは学校に行けなくなる。レーニティアは仕事の時間を短くできなくなる。デュミルに菓子を買えなくなる。4人でアイスを食べにも出掛けられなくなる。大好きだよ、いい子だよ、優しい子だね、みんなが愛してくれるよと言ってもらえなくなる。杖の男を叩いてしまう。骨が折れそうなほど弱った身体を殴り、突き飛ばした。彼は近郊を崩し、尻餅をつく。立ち上がろうとはしているが震えている腕に筋力はないようで、彼はわずかに尻を持ち上げては床に打ち付けるだけだった。(はた)からみるとその滑稽な様が却ってキュアッドリーの罪悪感を呼び覚ます。しかし掛ける言葉もなく、カラスはてんてんと2人の周りを跳ねて耳障りな声で鳴いた。キュアッドリーは変わり果てた客であり、話相手の姿に視界を滲ませた。立ち尽くしていると、兄と弟が帰ってくるのが見えた。ディレックは玄関の様子がおかしいことにすぐ気付いたらしく、ビニール袋を落としてデュミルのことも忘れて走ってきた。カラスがガァガァ鳴きディレックの前に背筋を伸ばした。兄は激しい嫌悪を示し、長弟の姿を見た。目の前で尻餅を着いたままの病人染みた男、そしてカラス。 「なんだよ、これ……説明しろ、キュアッドリー!」  ディレックは弟を鋭く睨みつけ、よぼよぼの若者を助け起こし、杖を持たせた。カラスはてんてんと跳ね、ディレックに呼応するようにキュアッドリーに嘴を開き、耳を劈くような非難がましい声で鳴いた。しかし杖つきの男はキュアッドリーを庇うようにディレックの前に立ち塞がる。 「あんたには後から話聞くよ。これはオレたちの問題だから」  カラスもまたキュアッドリーと杖つきの男へ咆哮する。 「キュアッドリー…どういうことだって聞いてんだよ。お前の口から説明しろよ」  カラスがガァガァ鳴いた。ディレックはうるさい!と叫んだ。カラスは黙るとてんてんと跳ね、首を傾げた。 「……お金、稼ぎたかった」  ディレックの手が棒切れの腕に弾かれる。 「お前…!」 「お金稼ぎたかった!お金欲しいの!お金がなきゃダメなんだよ!」  玄関扉が開く。ビニール袋を片手にデュミルを抱き上げた銀髪の女が不機嫌に緑の目を杖をつく男に向けていた。  生卵はほとんどダメになっちまってるよ。これで買い直すといい。  デュミルを下ろし、硬貨をその柔らかく小さな掌に握らせた。 「余計なことするなよ」  今日は特大オムレットってわけかい。じゃあ、チビガキ、それで菓子でも買ってもらえ。知事が世話になったな。  銀髪の女は杖の男の肩に触れた。彼女は杖を奪い、折れそうな腕を首に回す。ディレックはデュミルの手から硬貨を毟り取ると銀髪の女に出す。 「要らない」  銀髪の女の冷めた緑の目がディレックを見下ろした。  弟が身売りで稼いでくれるからか?  ディレックは女の頬を張った。女は鼻を鳴らしてそのまま死体のような男を連れて行く。だが彼女のグレーのパンツスーツが止まった。 「みんな、どうしたんだ」  玄関扉が開き、カラスがてんてんと跳ねていった。キュアッドリーは入ってきた人影を擦り抜け、暗くなった空へ飛び去っていくカラスを追った。 「おじさん…」  キュアッドリーの服装に帰ってきたばかりのレーニティは怪訝な顔をした。  働きたいって言ってるガキがやっと仕事の口見つけても理由つけて引き留めたのはどこの誰なんだかな。  銀髪の女はディレックの手から金を取り、よろよろとした男を支えながら玄関を出て行く。  中入ってろ。風邪ひいてチビガキにうつったらどうする。  膝をつき空を見上げているキュアッドリーに女は言った。星空は明るい。防風林のずっと奥に水上の観光地が光っている。 「おじさんはぼくのこと、褒めてくれたんだよ。おじさんはぼくと一緒に居てくれたんだよ…」  女は足を止めたがまた肩に半分担いでいる要介護人を引き摺る。  州局(うち)はいつでもお前を待ってる。  キュアッドリーはヒールはあるが安定感のある靴で地面を蹴った。ストライプの入ったグレーのパンツスーツの背中に飛び付く。 「一緒に行きます、一緒に行く…おじさん、まだ戻してもらってない」  銀髪の女はぱさついた茶髪に手を置いた。クソガキ、と呟いて半分預かっている体重を子供に渡して駐車場に行くよう残すと宿舎に戻っていった。キュアッドリーはデュミルよりも質量の無さそうな病人の身体を支えようとしたが彼は杖をついて自ら歩いた。 「おじさん、戻してよ」  茶髪の男は反応を示さず、杖をついて駐車場のほうへ向かう。 「おじさんしかいないんだよ、おじさんしかぼくには……酷いよ」  いくらか水分のある樹皮のような手が嗚咽するキュアッドリーに触れたが、カラスにされるのではと恐怖から叩き落としてしまう。 「戻してよ、何でもするから。おじさんいなかったらぼく、1人ぼっちだよ」  涙を拭いながらキュアッドリーはとぼとぼと歩いた。杖をついて歩く男のほうが一歩はやいくらいだった。潮風が素足を撫でていく。広い駐車場からは崩落した大聖堂の敷地の端が見えた。しかし病人然とした男が視界に入り大聖堂の方向を塞がれる。彼は黙ったきりで、よぼよぼになりながら10台分は余裕のある駐車場に1台だけ停まった黒塗りの車へ歩いていく。 「レニーはディルが一番だから、ディルが頷かなきゃぼくのこと許すわけない」  咽びながらキュアッドリーは呟いた。 「デュンの世話はいつもディルがしてるから、デュンだってぼくのこと分かってくれるわけないよ」  濁った青い目がキュアッドリーを覗き込む。 「こんなにお金に困るなら、ディルとデュンだけ産まれたら良かったのに」  本音が口をついて出る。だから、働くならディレックではなく。スクールに通うのは自分ではなく。ポケットにしまっていた札束に落ち着いた。数は数えられない。紙幣1枚の持つ価値も分からない。店の人の指示で買い物は済ませていた。大体の数字の大小しか分からず、財布は紙だったものが金属になって戻ってくる。札束を握り締める手が震えた。虹色の光沢を放つ紙だ。何よりも欲しかった。どうしても欲しかった。兄の進学の助けになれたら。保護者がもう少し一緒にいてくれたら。弟がボール遊び以外の玩具を買えたら。ただ少し朝飯にジャムが増えたら。兄たちが腹を鳴らさず眠れたなら。その後に本を買って、だが字が読めない。読み書きの練習をして。何から教わる。本はどこに売っている。一体本はどれくらいする。その値段は買っていいものなのか。兄の学費、弟の食費に充てたほうがずっと。 「おじちゃん、知事ならお金いっぱい持ってるの?ぼく、頑張る。いっぱい服着替えるよ。バナナでもペロペロキャンディでも舐めるから。お尻の匂い嗅いでいいし、揉んでいいよ。おっぱいマッサージするから…膝枕もしてあげる…だから、」  褒めてくれる?しかしこの男は(おし)だ。笑ってくれる?だがこの男には表情がない。喜んでくれる?この男にはそうするだけの体力はない。濁った青い目はキュアッドリーから伏せられる。 「レニーだってやってるんでしょ?どうしてぼくはダメなのかな。ぼくはぼくなりに役に立とうとしたらダメなのかな。ぼくは意思なんて持たないほうが…」  ざりざりと砂利を踏むパンプスの足音に言葉を呑む。銀髪の女はキュアッドリーへ畳まれた衣類と靴を渡す。そして彼の手の中の札束に一瞥くれ、そこに紙幣を1枚出した。  飯代だってよ。兄ちゃんから。でもお前、そこに足す気だろ。あたしが持ってるから必要な時に言え。  銀髪の女は車のロックを外し、キュアッドリーが着替えているうちに杖の男を乗せた。黒塗りの車は天井(ルーフ)には星空が写っていた。下着を身に付け、嗅ぎ慣れた匂いに包まれる。乗り込んだ車は州局に走っていく。池のオブジェは流水音を止められ、ガラス張りの壁からは人のいないがらんとした空気感があった。女はまず杖の男を大きな部屋に連れて行った。キュアッドリーは待つよう言われたが、彼女は眉を顰めると呆れたように同行するよう訂正した。杖の男はベッドによく似た椅子に寝かされ、傍にいたキュアッドリーを骨張った手で掴んだ。濃い隈の上の濁った青い目が紅い双眸を捉える。潤いのない鱗のような唇が動いた。声がわずかに混じった息が漏れただけだった。キュアッドリーは人を豚に変える魔憑きの女と同じ手に掴まれ腕をじっと見ていた。 「カラスに、しないで…」  同じ色をした眉が下がった。男の腕が力無く落ち、彼はゆっくり眠りに落ちたらしかった。肘の内側に繋がれたコードが赤く染まる。女に促され廊下へ出た。  あのカラスは明日には戻るさ。安心しろ。  緑の目はキュアッドリーを見なかった。靴音が響く。 「本当に?」  ああ。  局内にまだ人は居たが、以前来た時ほどではなかった。少し歩くのが早いグレーのパンツスーツを追う。女は横を確認すると慌てたように振り返った。不平不満を口しそうな表情が落ちてくるが彼女は何も言わなかった。キュアッドリーはびくりとした。女は嘆息する。  怒ってるわけじゃねぇんだ。色々あってな。怒ってるわけじゃねぇんだ…  女は低く唸って、何か不味い物でも食べているような顔をして、レーニティアより黒みがかった銀髪を掻き鳴らす。レンズの奥の目が弱っていた。  バカな弟分が勝手に出て行って、バカなことをしたんだよ。 「弟がいるの?」  弟じゃねぇよ。でも本物(まじ)の弟より、弟みてぇなもんだった。お前のデカい兄ちゃんからみたお前等みたいなもんだな。  女はいくらか疲れた様子をしていた。きょとんとしたキュアッドリーに彼女は「分かんねぇか」と嫌味っぽく笑ったが、キュアッドリーは「弟いたの」と少し外れた返しをした。

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