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第9話

まるで深い森の中に凛と佇む大樹を思わせるその香りに、何故だろうか。とても懐かしさを感じ 無意識に深呼吸をしてしまった。 「・・・落ち着いた?」 柔らかな声につられて春は顔を上げる。 声の主は穏やかに微笑んでいた。 「きみ、まだ仕事中だよね。終わるのは何時かな?」 「あ、今日は5時に終わります・・・多分」 5時からシフトインする大学生がちゃんと来てくれれば5時には上がれるはず。今日のメンバーなら無断欠勤はおそらくないだろう。 「じゃ、仕事終わったら来てくれないかな?電話してくれたら下まで迎えに行くから安心して来てね」 そう言いながら内ポケットから取り出した名刺にさらさらと何かを書き込んで春に手渡す。 「あの、これ・・・」 「下に来たら、こっちの番号に電話してね」 と男性は手書きの番号を指差した。 不可抗力とは言え、男性にぶつかり洋服を汚してしまったのは事実だ。 きっと自分に拒否権はない・・・そう思い、春はコクリと頷いた。 「名前教えてくれる?」 「西野・・・」 「・・・西野?」 「西野 春 です・・・本当にすみません」 改めて頭を下げると、ふわりと頭の上に手が乗せられた。 「それでは西野春くん、また後でね」 ビクリと身体が強張った瞬間 すっと手の感触がなくなり、春の横を男性が通り過ぎ建物の中に消えて行った。 一気に切れた緊張の糸に、春はヘナヘナとその場に座り込んでしまう。 見ると、手渡された名刺には 藤ヶ谷 琉聖(りゅうせい) と記されている。 藤ヶ谷・・・って、このビルの名前じゃん!と気づき、春は目眩を覚えた。 やはり、自分はとんでもない失敗をしてしまったのだ。 ユニフォームや商品を見れば何処のファストフード店かすぐにわかるだろうし、去り際に名前も聞かれた。 もしかしたら、もう店にクレームの電話がいっているかもしれない。 ・・・また店長に迷惑を掛けてしまう。 とにかく戻って謝らなくちゃ・・・。 春は名刺をポケットに突っ込み、汚れたズボンを手で軽く払ってから 急ぎ足でその場を後にした。

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