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第26話
「はい、コーヒー」
「ありがとうございます」
手渡されたコーヒーにそっと口をつけると
まだ温かく、少し気持ちが落ち着いてくる。
ホッと一息ついた春に、藤ヶ谷は落ち着いた声で語りかけた。
「普段、生活していると何にも考えないんだけどさ・・・少し離れて遠くから見てみると、
自分の住む街がこんなにも綺麗なんだって改めて気がつくよね」
「本当・・・ですね」
春はゆっくりと頷く。
「なんでも手に入れられるし、俺にできないことなんて何もない!って勘違いしていた頃もお恥ずかしながらあるんだけどね。
でもね・・・本当の自分はちっぽけな存在で、何一つ自分自身の力ではできないんだって、
ここに来ると思い知らされるんだよ」
驚いて藤ヶ谷の方を見るが、暗くてその表情までは窺えない。
「自分が思っている以上に世間は広いし、
どんなに欲しても手に入れられないものが、この世の中にはたくさんあるしね・・・」
何て答えたらいいのか分からず、春は芝生に視線を落とした。
藤ヶ谷は、自分なんかが想像もできないような富裕層なんだろうと勝手に思っていた。
恵まれた環境、恵まれた性別。
春が逆立ちしたって手にすることはできないであろうものを、藤ヶ谷は生まれながらにして手に入れている。
――そう思っていたのに
藤ヶ谷の告白は、それを真っ向うから否定するもので、春は戸惑う。
沈黙する二人の間に、さぁっと夜風が浮き抜ける。
その瞬間、ふわりとシダーウッドの香りに包まれた。
・・・これは確かに藤ヶ谷のフェロモンの香り。
それまでαのフェロモンは、春にとっては恐怖の対象でしかない・・・はずだった。
それなのに――どうしてだろう・・・。
この香りに包まれると、大地に抱かれる安心感にホッとする。深い森の中に凛として佇む大樹のイメージの香りに
春は心から癒される・・・。
隣の藤ヶ谷がゴロンと横になり
夜空を見上げた。
「・・・さっきの、ことなんだけど」
遠慮がちに藤ヶ谷が口を開く。
「俺は君に触れられないのに・・・彼はずいぶんと容易く触れることが・・・できるんだね」
「え・・・」
藤ヶ谷が、あのことを言っているのは
春にはすぐに理解できた。
店長とふざけながら、もつれあう様に店から出た、あの時のことなんだろう・・・。
「遠くからでも、西野くんの笑顔を見れたのは嬉しかったんだよね。でもそれは、俺に向けられたものじゃなくて・・・ねぇ、あの人は誰なの?」
ふと目をやると、藤ヶ谷は腕枕をして春の方をジッと見ていた。
「あ、あれは・・・」
「あれ?」
意を決した様に一つ咳払いをしてから
春は口を開いた。
「うちの店長なんです。僕が高校生の時からお世話になっていて、進学も就職も出来なかった時、いずれ社員にしてくれるって言ってくれて・・・。あの、発情期の時も・・・」
「発情期?」
藤ヶ谷の声色があからさまに硬くなり、春は焦る。誤解され、店長に迷惑が掛かるのだけは
どうしても避けたかった。
「僕が受診の時もしっかり休ませてくれるし・・・発情期のシフトも融通してくれて」
「ふーん、そうなんだ。それで彼は・・・αなの?」
藤ヶ谷がそう言った瞬間、さっきより濃厚で
濃密なシダーウッドの香りが春を包み込んだ。
「・・・藤ヶ谷さん?」
「ごめん!ごめんね・・・今言ったこと忘れて」
勢いよく起き上がると一気にコーヒーを飲み干した藤ヶ谷はそのまま立ち上がりスラックスに付いた芝生を払う。
茫然と見上げた春は、
その瞬間気付いてしまった。
――大地に抱かれる様な安心できる藤ヶ谷の香りなのに、その中に凍てつく様な孤独を感じる。
それは多分シダーウッド、針葉樹の持つ
氷に覆われた大地にポツリと一人ぼっちで佇む寒々としたイメージそのもので
時折感じていたチクリとした引っかかりの正体はコレだったのだ。
恵まれているはず、と思っていた藤ヶ谷に見え隠れする孤独感に
春はなぜか泣き出しそうになってしまった。
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