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第32話

「ずっとさ、幸せな生活が続くと思っていたんだよね・・・あの日までは」 「・・・あの日?」 春はゆっくり頷き、ジャスミンティーを一口飲んだ。 今まで誰にも打ち明けたことのないこの話を語るのは、正直あれから何年経とうと心の傷が疼くのだ。 「あの日、母さんは僕の誕生日ケーキを近所の洋菓子店に買いに行ったんだ。僕もついていくって散々駄々をこねたんだけど、すぐ戻るからお留守番していてって。母さんが出て行ってしばらくすると、今みたいに風の中に雨の匂いを感じてね・・・傘を持って迎えに行ってあげようと家を出たんだよ」 案の定というべきか、外に出るとポツポツ雨が降り出していた。遠くでは雷の音も聞こえ始めている。 母さんの傘と自分の傘を抱え、幼い春は洋菓子店へと急いだ。大人の足で10分程度の道のりだ。今までも家族の誕生日やクリスマスにはよく利用してきたお気に入りの店には迷わずに行ける。 この角を曲がればもう洋菓子店は目の前だ。 息を切らして急ぐ春の耳に、よく知った声が聞こえてきた。 驚き足を止め、通りから横に逸れる路地裏の先に目をやった。 2、3人の人影が見える。 昼でも薄暗い路地裏の、穏やかではないその様子に、春は立ちすくんだ。 男の人を脅すような低い声や冷やかすような声。 そして女性の小さな悲鳴と助けを求める声。 その女性の声は、大好きな母の声に似ている気がした。 ・・・どうしよう。どうしよう。 身動きの取れないままでいる春の耳に、「本日のおもちゃゲットーだぜ!」と嘲笑うような男の甲高い声が届いて身体が震える。 「お母さん?・・・お母さん!」 足の力が抜け、ヘナヘナとその場にしゃがみ込んだのと同時に目から涙が溢れ出す。 春の視線の先には、グシャリと潰れたケーキの 箱がポツンと落ちているだけだった。 ――そこからは、全く覚えていない。 なぜかごっそりと記憶が抜け落ちていて、 気がついたら父と2人、それまでとは別の町で暮らすようになっていた。 そこまで話し終えると、春はペットボトルの中身を全て飲み干し、深呼吸をした。 日が陰り、少し薄暗くなった部屋の電気をつける。 蛍光灯に照らされた清川は、涙ぐんでいるように見えて春を慌てさせる。 「え、清川くん、ごめん。こんな話聞かせて・・・ 「違う・・・違います西野さん」 オロオロする春を、鼻を啜りながらそっと制する。 「違います。・・・なんか、俺。西野さんを勘違いしていたんです」 「勘違い?」 「俺、貴方のことを、もっと苦労知らずでお高くとまったΩなんじゃないか・・・って勝手に思っていたんです」 ごめんなさい、と清川は申し訳なさそうに頭を下げた。 「・・・そうなんだ。でも、僕も同じなんだ。君のことを第一印象でそう感じたし・・・だからお互い様だよ」 春がそう言うと、清川は安心したように微笑む。その笑顔に、春は心の中に暖かい感情が生まれるのを感じた。 「春さん、って呼んでもいいですか?俺のことも蓮斗って呼んで欲しいです」 「うん、そうだね。そうしよう」 お互いに肩を竦めて笑い合うと、春のスマホがメッセージを受信し震えた。ふと目をやると送り主は藤ヶ谷だった。 「あ、いけない!もうこんな時間。俺門限あるんで帰らないと!」 清川が立ち上がり伸びをする。 時計を見ると、もうすぐ18時になるところだ。 「送るよ」 「大丈夫です!俺、首輪してるし、このピアスGPS付きなんです!それに、多分・・・迎えに来てくれるんで」 「ホームって、ずいぶん面倒見がいいんだね」 春が感心していると清川は「まあ、そうですね」と含み笑いをした。 それでも心配する春を「帰宅したらメッセージを送りますね」と安心させ、清川は小走りに帰って行った。 その背中を見送りつつ、春は空を見上げる。 雨の気配はいつの間にか消えていた。

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