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第35話

『おはよ・・・ずいぶん早起き、だね』 藤ヶ谷の起き抜けの声に、春は微かな衝撃を受け、目を見開いたまま言葉を発することも出来ずにいた。 発情して聞く、αである藤ヶ谷の声が こんなにも自分の感情や欲情を揺さぶるとは 思ってもみなかった。 『・・・西野くん?』 藤ヶ谷の呼びかけに返事をしようとしても、喉が詰まったような感覚に、ただ息を飲むことしか出来ない。 指先が震え滑り落としたスマホを、慌てて拾い上げ耳に押し当てた。 『どうした?』 「・・・あ、の」 『うん?』 こちらを伺う電話の向こう側にいる藤ヶ谷の、優しく包み込まれるようなあの香りを思い出したら、再び涙が溢れ口が自然に動いた。 「・・・助け、て」 『え・・・?』 「助けて・・・」 再び込み上げた吐き気に、春は咄嗟に口元を押さえる。 『西野くん、どこにいるの?』 「・・・家、です。家で・・・っ」 そこまで言って我慢できなくなると、スマホをベッドに放り投げ転がるように洗面所に行こうと立ち上がった。 すると急に目の前が暗くなり、全身から力がスッと抜け落ちる。 そして春は静かに意識を手放した。 ―――――――――――――――― 「西野くん?え・・・ちょっと、西野くん!」 何度呼びかけても、春の返事は聞こえない。 何度も名前を呼ぶうちに、夢うつつのボンヤリした頭がクリアになってきた。 キャビネットの上の時計は、まだ5時少し前を指している。 遮光のカーテンの為すぐにはわからなかったが、夜明け前なのかまだ外は薄暗いようだ。 一瞬、春から電話を貰う夢でも見たのかとも思った。しかし確かに残る春からの着信履歴に、 ただならぬことが起きている嫌な予感が頭をかすめる。 藤ヶ谷は車の鍵を片手に、急いで部屋を飛び出した。 乱暴に押してもなかなか来ないエレベーターにイライラして爪を噛んだ。 次、引っ越す機会があったら高層階は絶対にやめてやるんだ・・・と、タワーマンションを意気揚々と契約した以前の自分を心の中で何度も罵倒しながら、早朝の白々と明けて来た街を春の自宅へと車を走らせる。 信号待ちの度に助手席に放り投げてあるスマホを眺めるが、春からの受信はあれ以降ない。 ――いったい、何があった・・・?。 藤ヶ谷のマンションは、春のアパートとは同じ市内でそれほど離れた距離ではない。 だが、今はとてつもなく遠く感じる。 さほど長くない信号待ちも、まるで嫌がらせのように長く感じて、さらに不安が煽られた。 こんなにも動揺して感情が揺らぐことなど今までほとんどない藤ヶ谷だったが、そのことに気付ける余裕など、この時は全くなかった。 はやる気持ちをなんとか抑え、近所迷惑にならないよう静かに車を停めて春のアパートを見上げた。 外から見た様子は、特に変わらない。 でも春は確かにこの部屋にいて、自分に助けを求めて来たのだ。 外階段を上り、2軒目のドアを控えめにノックする。以前送って来た時、見上げた部屋から少し顔を覗かせた春は左から2番目のこの部屋だったはず・・・。 もう一度ノックし小さな声で 「西野くん?」 と呼びかけてドアに耳を近づけてみるが、物音一つ聞こえなかった。 ドアノブを回し中に入ろうとするが、鍵が掛けられている為入れそうもない。 どうしようか・・・と一瞬だけ躊躇った後、 藤ヶ谷はドアを蹴り飛ばし、壊して中に飛び込んだ。 踏み込んだ瞬間、ふわりと鼻を掠める春の香りに眉をしかめる。 「西野くん・・・」 部屋に漂うこの香りから、春が発情していることは間違いない。 ――発情して、αの俺を無意識に求めた・・・? もしそうならば、いや、そうだとしても何かおかしい。 ふとキッチンの流し台の横に無造作に置かれていた複数の薬のPTP包装シートに目をやる。 抑制剤かと思い手に取ると 「・・・え、風邪薬と頭痛薬?」 予想外の薬を不審に思いつつ部屋に入ると、ベッドの脇に倒れている春の姿を見つけ慌てて駆け寄った。 「西野くん!どうしたの!」 真っ青な顔色でピクリとも動かない春に、藤ヶ谷はひどく動揺する。 何度も名前を呼びながら、ベッドの上に散らばった薬の袋が気になり手にとった。 ――抑制剤。まさか、これ・・・全部飲んだ? 刹那、脳裏に浮かんだ記憶に藤ヶ谷は震えるような恐怖を抱く。 早く、早く病院へ連れて行かないと・・・。 あの時のように、 手遅れになる前に・・・。 春をタオルケットで包み、抱き上げると 急いで部屋を飛び出し車の助手席に乗せてシートを倒す。 ポケットからスマホを出し通話ボタンを押して 車を発進させる。 今は、道路交通法なんか気にしていられなかった。 数回のコールで相手に繋がった。 「あ、俺だけど!急ぎなんだ、頼む!」 チラリと助手席の春に目をやり、藤ヶ谷は白々と夜が明けて来た早朝の道を病院へと急いだ。  

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