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第38話

刹那、車内にふわりと香る藤ヶ谷の香りに 春は酔ってしまいそうになる。 いとも簡単にぐらりと揺らぎそうになる愚かな決心を、口唇をグッと噛みしめて何とか耐えようとした。 「それともう一つ・・・」 「もう、一つ?」 「きみの部屋の鍵なんだけどね。部屋に入ろうとした時ロックされていて開けられなかったんだよね」 ――確かに。 冷静に考えてみれば、鍵のかかった部屋に彼がどうやって入ってきたのかわからない。 春が隣りをチラリと見ると、ハンドルを握り前を向いたまま藤ヶ谷が少し小さめな声で呟いた。 「ついね、ドアノブごと蹴り飛ばして破壊してしまったんだけど」 「え・・・」 春は呆気に取られて運転席の藤ヶ谷を見た。 常に冷静で落ち着いた雰囲気を醸し出す彼が、乱暴にもドアを破壊する様子など、全く想像できなくて理解に苦しむ。 「つい慌ててね。それで修理を依頼したんだけど数日掛かるらしいんだよ。お詫びに直るまでの間、別の部屋を用意したから。ごめんね」 「あの・・・せっかくのご好意ですけど、大丈夫です。鍵くらいなくても・・・」 「いや、絶対にダメでしょ。それに俺はきみの引受人だよ?1人にしないって約束で、ドクターは帰らせてくれたんだから・・・」 矢継ぎ早に言われ、春は返す言葉を見失った。 あの医師が然るべき場所に通報せずにこうして帰してくれたのは、藤ヶ谷が引受人になってくれたからだろう。 ふわりと漂い鼻腔をくすぐる藤ヶ谷の香りは、今の春にとって、手足を縛める真綿でできた鎖のようだ。 この香りに優しく包まれてしまったら、断ることなんて到底出来なくなってしまう。 頭では拒否しなければと分かっているのに、きっと体がαからの施しを求めてしまうのだ。 春は、自分の身体を呪いながらも仕方なく頷く。 ただでさえ思い通りに生きられないΩ性なのに、施設に送られ更に自由を奪われるのだけは、なんとか回避したかった。 ―――――― 2人が着いた場所は、初めて藤ヶ谷と出会ったビルの隣にある一見ホテルに見えるマンションだった。 エレベーターを上り、最上階に着くと 「さぁ、どうぞ」 と藤ヶ谷に促され、春はおずおずと部屋の中に入る。 「・・・あの、ここは?」 「ここは、ワンフロアに一件だけだから他人は来なくて安心だよ。鍵はエレベーターのカードが兼ねているからね。ここに来るには、このカードがないとダメなの。無くさないでね?」 「え、怖い・・・」 春は場違いなほど高級感に溢れるこの場所に恐怖したのだが、どうやら藤ヶ谷は勘違いをしたようだった。 「あぁ、ごめんね。カードなんて無くしても大丈夫だよ。俺に電話くれたらすぐ来れるから」 「いや、そうじゃなくて・・・」 あまりにも自分のアパートとかけ離れたこの部屋に圧倒されて、春は冷や汗が出た。 その様子に気がついた藤ヶ谷が慌てた様子で春を抱き寄せると、一番奥にある部屋へといざなう。 「取り敢えず今は何も考えないで休もう?それから、考えよう?」 暖かな日差しに包まれたベッドルームで、柔らかな布団を剥ぎ、春を横にさせようとした藤ヶ谷は、その身体が小刻みに震えていることに気がつき春の顔を覗き込んだ。 「・・・西野くん?」 春は震える身体をどうすることも出来ず、怯えたような目をして藤ヶ谷を見上げた。

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