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第2話 出会い【草薙】

 一年前の四月。新しい生活に対する期待と不安に揺れる新入生たちの心のように、青陵高校の庭の桜は、その花びらを風に躍らせた。  新入生の一人として、草薙 菫(くさなぎ すみれ)は、近くに座っているクラスメートと、他愛もない話をしたり、互いにつつき合ってクスクス笑ったりしながら、体育館での新歓イベントの開始を待っていた。    新歓の一番手は、人数が多く、出入りに時間がかかるブラスバンド部だ。ステージ上には、半円型に椅子が並び、揃いのユニフォームに身を包んでそれぞれ楽器を手にした部員達が座っている。  草薙は、彼らのユニフォームに目を引かれた。  カッコいい!  白いブレザーにライトブルーのネクタイ、ネイビーのスラックスに身を包んだ彼らは、格段に大人びて見える。  この時も、指揮者は柏木 圭(かしわぎ けい)だった。すらりとした長身、鍛えた体にタキシードを纏った凛々しい姿で、白い歯をこぼして新入生に微笑みかけながら、体育館のステージに駆け上がった柏木に、草薙は、目を奪われた。  柏木が部員を起立させ、彼の合図で全員がお辞儀をした瞬間、夢中で手を叩きながら「カッコいい・・・」と呟いた草薙の声は、周囲の拍手の音が大きかったせいで、誰にも聞こえていなかったが。  演奏中も、殆ど背中しか見えない柏木の姿だけを、草薙は見詰め続けた。長い指は節ばって男らしいが、指先まで神経が払われており、繊細な動きだ。たまに見える横顔は、コロコロと表情を変える。  「さぁ、ここでいったん、ぐっと抑えて」と、ぎゅっと眉を寄せたかと思えば、  「いいよ! 今度はもっと歌い上げて」胸を張って、目を輝かせる。  「次はシンバルの出番だ!」と、左手を力強く打楽器(パーカッション)に差し出したかと思えば、招き寄せるかのようにうねらせる。  部員一人一人に語りかけるような、素晴らしいリーダーシップだった。  もちろん、部員たちの演奏も素晴らしい。草薙は、公立中学校のブラスバンド部で三年間トランペットを吹いていたが、高校生は、体格も大きい分、音量や表現力も格段に迫力がある。ただ、それを差し引いても、この高校のブラスバンド部はレベルが高そうだ。  何より、こんなカッコいい指揮者の先輩と一緒に演奏できたら、きっと楽しいに違いない。  演奏が終わり、再び丁寧で優雅なお辞儀をする指揮者の彼の小さな頭を見詰めながら、草薙は「よし、今日にでもブラスバンド部に入部するぞ」と決意を固めていた。  さっそく、新歓当日の放課後、音楽室に隣接するブラスバンドの部室へ草薙が入部届を持参した時、部室には、指揮者の柏木が居た。  しかし、柏木の隣には、金髪のストレートヘアで小柄な可愛らしい男の子が並んでいた。二人は、雑誌か何かを一緒に覗き込みながら、親しげに肩を寄せ、クスクスと笑い合っていた。  「あの・・・・、僕、ブラスバンドに入部希望の一年生なんですが」おずおずと草薙が声をかけると、柏木が、ふっと顔をあげた。草薙と視線を合わせるや否や、彼は目を弓なりに細め、嬉しそうに破顔した。  「ようこそ、ブラスバンド部へ。新歓当日に入部してくれるなんて、嬉しいなぁ。俺は、二年生で、指揮者してる柏木 圭です。今年の新入生で入部希望者は、君が二人目だよ。一人目はコイツ、桜井 佑(さくらい たすく)。・・・でも、佑は、青陵の中等部でも一緒にブラスやってたからなぁ。なんか、代り映えしないんだよなぁ」と、隣にいる金髪の小柄な男の子に目を向け、からかうように言った。  桜井は、甘えて拗ねるように、そのぽってりした唇を突き出すように尖らせ、下から上目遣いで軽く睨み、「ひど~い、圭先輩」と、柏木の逞しい肩に両手を乗せた。桜井の、ネコのようなアーモンド形の瞳は色素が薄く、肌の色は透けるように白く、つやつやの唇はほんのりピンク色をしている。  軽く笑い、やんわりと桜井の手をのけた柏木は、草薙を振り返り、「君、経験者?」と尋ねた。柏木と桜井の間に漂う妙に色っぽい空気に、やや気圧されながら、草薙は「はい。白山中学校のブラスバンドでトランペットを三年やってました。草薙と言います。」と答えた。  真顔に戻った柏木は、「草薙君、けっこう背高いね。・・・175センチくらい?・・・腕も長いな」と、草薙に歩み寄り、じろじろと上から下まで眺め回した挙句、背後から草薙の腕を取って持ち上げ、長さを比べるように自分の腕と並べた。草薙は、自分よりも大柄な先輩に後ろから抱き付かれるような姿勢にどぎまぎしながら、「あ、あのぉ・・・」と、戸惑いを隠せずに呟いた。  「あぁ、ごめん。いい体格してるもんだから、つい。ブラスバンドって、文化系だと思われてるけどさ、楽器を吹いて音を鳴らすのは人間の身体だからね。体格が良い方が絶対有利なんだ。特に大型楽器は、ある程度の肺活量がないと、良い音が鳴らないから。  それに、うちのバンドは、身長が低いやつが多くて、トロンボーンの人数が足りないんだよね。ほら、スライドを、かなり前まで伸ばさなきゃいけないでしょ。身長が低くて腕が短いと、フルポジション取るのが厳しいから。草薙君、トロンボーンやってみない?」  今度は前に回り込んで、にこにこと草薙を眺めている。  「僕、トロンボーン、やったことないんです。トランペットだと、バルブが三つ付いてて、それを押せば音程がある程度安定しますけど、トロンボーンって、全く目印がないスライドを、前後に自分で動かしてポジションを決めないと、音程合わせられないですよね? 難しそう…。できるかなぁ」草薙が、自信なさげに眉を下げて答えると、柏木は、励ますように、草薙の肩をポンポンと軽く叩いた。  「知ってると思うけど、トロンボーンも金管楽器だからさ。マウスピースに付けた唇を震わせて音を出す原理は一緒。トランペット経験者の草薙君なら、すぐに感覚は掴めると思うよ。俺、指揮者もやってるけど、楽器はトロンボーンなんだ。同じ楽器だから、良かったら俺が教えるよ。トロンボーンやろうよ。一緒に。」  優しい声に、草薙がおずおずと柏木を見上げると、太陽のように明るい笑顔が返ってきた。  自分に向けられた笑顔の眩しさに、草薙はフワフワした気持ちになった。  (こんなカッコいい先輩が優しく教えてくれるなら、トロンボーン、楽しいかもしれない・・・。)  「わかりました!僕、やります、トロンボーン。柏木先輩、よろしくお願いします!」草薙は、興奮気味に、頬を少し赤らめながら、勢いよく柏木に頭を下げた。  「そんな、一学年しか違わないんだからさ。頭なんか下げるなよ」と、柏木は、草薙の肩に手をかけ、「草薙君。これからよろしくな」と、右手を差し出した。草薙が、躊躇いがちにその手を握り返すと、柏木は、にっこり白い歯をこぼして微笑みながら、ぎゅっと強く握り返してくれた。  (うわぁ・・・、掌の厚みがすごい。指も節張ってる。綺麗だけど、大きくて男らしい手だなぁ・・・。)  大人っぽくて、男らしい柏木。彼に対する自分の気持ちは、単なる年上の男性への憧れなのだと、この時の草薙は思っていた。それは、あまりに奥手故の勘違いで、実は恋愛感情なのだと本人が気付くのは、もう少し先の話だった。

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