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第3話 ブラスバンド部での生活の始まり【草薙】

 この年、ブラスバンド部へは、草薙(くさなぎ)桜井(さくらい)を含めた十数人の新入生が入部した。全校新歓イベントの一週間後に、ブラスバンド部の新入生歓迎会が音楽室で開かれた。ブラスバンド部全体のルールや年間スケジュール等のオリエンテーションが行われた後、新入生の自己紹介となった。  三年生の(さかき)部長が、「はい、じゃあ、新入生の自己紹介行ってみよう! 氏名と、経験者はやったことある楽器。その他、好きな曲とか趣味とか、自由にね。」と言いながら、誰を一番手に指名しようかと音楽室を見渡した。最前列、しかも、真ん中近くに座っていた草薙と真っ先に目が合ったのは、もっともなことだろう。  「そこの、最前列の君から」  中学時代、ど派手な音が出るトランペットという楽器を吹いていたにも拘わらず、草薙は、人前で目立つことが苦手で、シャイな性格だった。数十人の部員たちに注目される中、一番に指名され、彼は、耳を赤くして立ち上がった。  「僕は、草薙 (すみれ)です。中学で三年間トランペットをやっていました」 ・・・えーと。あと、何を言わなきゃいけないんだっけ。草薙は、緊張で頭が真っ白になり、言葉に詰まった。  その空白の間に、桜井が、自分の隣に座っていた中等部からのエスカレーター組の仲間に、耳打ちした。「男なのに、スミレだってさ」二人は、鼻で軽く笑い、草薙を見た。  みんなの前で公然と馬鹿にされて、逆に、草薙は冷静になった。これまで、十五年も生きてきたのだ。名前のことで揶揄われるのも、初めての経験ではない。  「僕が、難産の末に生まれた時、病院の庭に、スミレが咲いていたそうです。スミレの花言葉は、『誠実、謙虚、小さな幸せ』です。両親は、『この子が生まれてくれただけで幸せだ。どうか、慎ましい日々の小さな幸せを大事にする、謙虚で誠実な人になってほしい』という願いを込めて、名付けてくれました。  スミレは、小さいけど、寒さにも負けずによく育つ、丈夫な花です。僕は、自分の名前を気に入っています。  ・・・中学ではトランペットでしたが、こちらでは、トロンボーンをやることになりました。楽器が変わるので、先輩方に色々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」  桜井たちに怒るでもなく、恥ずかしがるでもなく、落ち着いた表情で言い切り、草薙が一礼した瞬間、  「良い名前だね」と、音楽室の後ろの方から、声がした。  草薙が驚いて顔をあげると、「穏やかだけど、芯が強そうな、草薙にぴったりだ。良い名前だと、俺は思うよ」腕組みをした柏木が、草薙に微笑みかけていた。  草薙は、目を丸くし、改めて柏木の方に一礼してから、慌てて着席した。  (柏木先輩が、僕を(かば)ってくれた・・・。)  座った後も、胸がドキドキしている。頬が熱い。  「草薙君、一番手ありがとう。続けて行ってみよう。二番手は、そのお隣さん」と、榊は、その場をうまく収めた柏木に目配せで礼を言いつつ、自己紹介タイムを再開した。  新入生自己紹介が終わり、各楽器単位に分かれて、それぞれのオリエンテーションとなった。立ち上がった草薙が後方を振り返ると、長身の三人グループから、柏木が「草薙! こっち」と、手招きした。  おずおずと近づくと、見るからに温厚そうな、丸顔でがっちりした体型の上級生が、ニコニコと話し掛けてきた。 「草薙君、ようこそトロンボーンパートへ。三年生で、パートリーダーの熊谷(くまがい)です」  熊谷の隣にいる上級生も、熊谷や柏木ほどではないが、草薙よりは上背がある。 「さすが圭。いい新人をいち早くスカウトしたなぁ。大器の予感がするよねぇ。トランペットになんか、勿体無いよなー、この高身長」と、肘で柏木をつついた後、付け足しのように、「あ、俺、二年生で、柳沢(やなぎさわ)。よろしく」と言った。  「俺は柏木。改めてよろしく。ブラスバンドのみんなは、下の名前で呼んでるから、圭でいいよ」柏木が両手を挙げると、熊谷と柳沢もそれに(なら)い、草薙も含めた四人で、円陣を組み始めた。慌てて、草薙も、自分の両隣の柏木と熊谷の肩に腕を乗せた。二人とも、肩の筋肉が盛り上がっていて、まるで格闘技の選手みたいだ。自分の細い身体が少し恥ずかしい。  「いくぜー! 青陵高校トロンボーン!」「おー!」  こうして、ブラスバンド部での草薙の生活が始まった。  練習は、平日は、毎日行われていた。始業前の朝練は自主参加、放課後は全員参加だが、楽器の形状や大きさ、奏法の違いに、早く慣れたいと思った彼は、朝練にも毎日参加していた。  ブラスバンドの新歓で、草薙の名前を馬鹿にした桜井は、公然と、事あるごとに、柏木の肩や背中に(もた)れたり、腕と腕を絡めたりと、甘える姿を部員たちに見せつけた。  みんなは、半ば呆れ気味に「お前ら、デキてんじゃねーのか」と揶揄ったが、柏木は、「(たすく)とは、中等部の時からブラスバンドで先輩後輩だったから仲が良いだけで、それ以上は何もないよ」と、いつもサラッと追求を躱した。  一方、入部時に約束した通り、柏木は、丁寧に草薙の練習を見てくれた。楽器の構え方や手入れの仕方は勿論、トランペットより低音域を出すために効果的な、頬や唇の筋肉の使い方や鍛え方についても、教えてくれた。  草薙は、柏木の忠実な弟子だった。直接教わったことを、熱心に、正確に実行するだけでなく、師匠にぴったりと影のように寄り添い、彼の練習をじっと観察することで、更に多くを吸収した。草薙が、未経験だった楽器に順応するスピードに、柏木以外の上級生は驚いた。  「草薙は熱心だから、教え甲斐があるよ。飲み込みが早いし。それに、さすがトランペット経験者だ。高音の伸びが違うよ」柏木に褒められると、草薙は、少しくすぐったくて、とても幸せな気持ちになる。気の利いたお礼の言葉一つ言えず、はにかんだように微笑み返すことしかできない、自分の内気さがもどかしい。  柏木は、口で説明するだけでなく、時折、草薙の腕や手、顔に触れて指導してくれることもあった。  「口輪筋(こうりんきん)ていうのは、文字通り口の周りをぐるっと取り囲んでる筋肉で、金管楽器の音を支える肝になるんだ。トロンボーンの方が低音域な分、トランペットの時より、意識的に広めに使う必要があると思う。具体的には、この辺で、」と、言いながら、彼が指先で草薙の頬や顎に軽く触れた時、草薙は、ドキッとした。  教室でじゃれ合う同級生の手や指は、細くて小さくて柔らかくて、まだ子どもなのに、節や筋が浮き出る柏木のそれは、大人の男を感じさせた。  (圭先輩は、彼女とか居るのかな・・・。その子の顔や身体にも、あの指で、優しく触れたりするのかなぁ・・・。って、ダメダメ! 親切に教えてくれてる先輩に、こんないやらしいことを考えるなんて! 失礼だぞ!)  教室棟でのパート練習を終え、音楽室に戻る柏木は、柳沢と、何か楽し気に話している。肩甲骨が浮き出た、逆三角形の背中に、細い腰と長い脚。  柏木の後ろ姿から、目が離せない。彼に対して性的なイメージを惹起してしまう自分に、草薙はモヤモヤするものを感じ始めていた。

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