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第26話 ふたりの未来【草薙】

 大学のキャンパスで、柏木と初めて大喧嘩をして、草薙は、深く傷付いていた。  恋人が、自分の言葉をまるで信用してくれず、浮気を疑われ、(なじ)られたことはもちろんだが、女性経験がないのを揶揄(やゆ)されたことは、自分が大切にしている、心の中の純粋な柔らかい部分に、土足で踏み込まれたように感じた。  それなりに女性経験もある柏木とは違い、草薙は、女性との交際経験がないだけでなく、特定の女性を好きになったことがない。女性を好きになれるのかも、よく分からない。  自分の性的嗜好が曖昧であることは、柏木にすら打ち明けたことがない、草薙の秘かな悩みであり、不安だった。  放課後の部室で、沈んだ表情で楽器を組み立てていた草薙は、ある一年生から、遠慮がちに声を掛けられた。  「あ、あの、草薙先輩」  草薙は、反射的に、なんとか顔に笑顔を張り付けて、声のするほうを振り返った。 「なに?」  「正門のすぐ外のとこに、青陵大学のオーケストラの方がいらっしゃってます。鷺沢(さぎさわ)さんって女性の方なんですけど。草薙先輩を呼んで来て欲しいって頼まれました」もじもじしている一年生に、  「あ、その人ね。圭先輩とか柳沢先輩の同期なんだよ。僕が大学に遊びに行った時、お世話になった方なんだ。伝言、ありがとう。じゃあ、僕、ちょっと行ってくるね」草薙は、内心の動揺を隠し、ニッコリと伝えた。  一年生は、ホッとしたような顔をして、ペコリと頭を下げると、同級生の待っている方に駆けて行った。  (鷺沢さんが・・・? 一体、僕に、なんの用だろう・・・? ただでさえ、圭先輩に疑われているのに、あんまり会いたくないなぁ・・・。)  草薙は、内心、気が進まなかったが、男子高の前に、女子大生が立っているのは、間違いなく周りの注目を盛大に集めているはずだ。早く何とかしなければ、と、正門に急いだ。  鷺沢は、上品なワンピース姿で、ヴィオラのケースを肩に掛けて正門の外に立っていた。黒いストレートのロングヘアが、いかにもお嬢様然としている。  草薙の姿を認め、彼女はニッコリ微笑んで手を振った。  事の成り行きを気にして付近で野次馬のようにたむろしている青陵の男子高生や、「スミレ王子」の追っかけの周辺女子高生が、目を剥いて見ている。  (うっ・・・、やっぱり、こうなるよなぁ・・・。)  「すみません、鷺沢さん。こちらまでご足労くださって。何か、僕にご用でしょうか?」  草薙は、冷や汗をかきながら、どうにか、口元には愛想笑いを浮かべた。無礼にはならないように、しかし、あくまで、呼ばれたから自分はここに来ただけだ、と遠回しに伝えたつもりだった。  「ああ、ごめんなさいね、草薙君。私が高校まで押し掛けたら、ご迷惑だろうなぁ、とは思ったんだけど。これ、あなたのペンケースじゃない?音楽室の近くに落ちてたの。」鷺沢は、自分のバッグから、ペンケースを取り出して見せた。  「・・・あ! ほんとだ。それ、僕のです。こないだ大学にお邪魔した時に、落っことしたんですかね。わざわざ持ってきてくださって、ありがとうございます。・・・でも、よく、僕のだって、分かりましたね?」目を真ん丸にして驚いた草薙に、鷺沢は、悪戯っぽく笑った。  「だって、これと同じ形の色違いを、柏木君が持ってるもの。きっとお揃いにしてるんだろうな、と思って」  「・・・なんでも、お見通しですね。鷺沢さんには、かなわないなぁ」草薙は、苦笑した。  「ついでと言ってはなんだけど・・・。あなたたち、もしかして、喧嘩してる?」鷺沢は、心配げな表情を浮かべて、声をひそめた。  「・・・・・・。」  草薙は、殆ど面識のない女性に、何をどう話したものかも、どうこの場を誤魔化すかのうまい言い訳も、どちらも思い付かず、唇を噛んで、俯いた。  「もし良かったら、少し、話を聞かせてもらえない? 私で力になれることがあれば、協力するわ。それに、草薙君、すごい顔色悪いわよ。ちょっと、場所と気分を変えて、何か飲まない? ごちそうするから。」  鷺沢の表情は柔らかく、特段の裏がありそうには見えない。しかも、ここまでわざわざ忘れ物を届けてくれた年上の女性の誘いを断るのは、失礼に当たるだろう。草薙は、無言のまま、小さく頷いた。 ***  近くのチェーン店のコーヒーショップに入り、鷺沢は紅茶を、草薙はコーヒーを頼んだ。  「鷺沢さんて、すごいですね。僕らの関係にも、すぐ気付いちゃうし。ペンケースがお揃いだなんて、これまで、誰にも指摘されたことないですよ。しかも、今、喧嘩してるとか。柳沢先輩や菊田先輩だって、何も言ってこないのに。」  草薙は、率直に、鷺沢の細やかな気遣いを褒めた。  「ふふふ。女は、近くに居る人の気持ちの変化とかに、敏感だからね。男の人は、概して、相手が何も言ってこない限りは、『問題はないはずだ』って、考えるけどね」  鷺沢は、お茶目に笑った後、ふっと真剣な表情になった。  「ところで、柏木君との喧嘩の原因って・・・何だったの?」  草薙は、どこまで事実を言うべきか逡巡(しゅんじゅん)したが、ここで嘘を言うと、余計、事態が(こじ)れて厄介なことになりかねない、と、腹を決め、鷺沢の目を見て、正直に言った。  「僕が、柳沢先輩に相談に行った時、鷺沢さんにも来ていただきましたよね。ちょうど、圭先輩が、鷺沢さんと僕が二人でいるところを見て、僕が浮気したって誤解したんです。  ・・・誤解なんだけど、彼、すごく怒ってて。全然、僕の話を聞いてくれなかったんです。ひどいことも言われましたし・・・。それで、僕も怒って、喧嘩別れしちゃって。暫く口もきいてないんです」  鷺沢は、軽く目を見張った。  「そうだったの・・・。でも、草薙君と私が二人で話してたのなんて、ほんの十分とか、すごく短い時間だったのにね。柏木君って、そういう・・・・、何て言うか、やきもち焼きなの? 以前から。」  草薙は頭を振った。  「圭先輩が高校に居た時は、僕らが付き合ってることは、割とみんなに知られてたので。しかも、圭先輩は、有名人だったから。その恋人に手を出すなんて、そんな命知らずはいませんよ」と、苦笑すると、  「やだ! じゃあ、私、命知らずって、柏木君に思われてるのね?!」と、鷺沢は、大げさに、自分の首を、両手で守るように包んで見せた。  草薙は、見かけによらずお茶目な鷺沢の、可愛らしい仕草に頬を緩めたが、  「圭先輩は、同じ男同士なら、滅多なことでは負けない、って思ってたんじゃないですかね(笑) でも、鷺沢さんは女の人だから。『お前だって、女性に興味あるんだろ』みたいな感じで責められたんです。・・・そういう勝負になっちゃうと、どんな良い男でも、勝ち目ないですからね」  草薙が、溜息交じりに打ち明けると、鷺沢は、真顔で、切り込んできた。  「草薙君は、柏木君と付き合ってて、この先、どうするつもりなの?」  「えっ・・・、『どうする』って・・・?」草薙がポカンと口を開けてオウム返しすると、  「不躾な言い方だったら、ごめんなさいね。  今は、本人同士さえ良ければ、何も問題ないかもしれないけど、例えば、お二人のご両親は、同性同士で付き合ってるって、知ってるの?  男性同士だと、結婚ってわけにもいかないし、仮にパートナーとして長く一緒に居たとしても、子どもも作れないでしょう? そういう関係を、お二人のご両親やご家族は、どう思うのかしら」  草薙は、これまで、大好きな柏木と気持ちが通じ合ったのが嬉しくて、『更にその先』のことなど考えたことがなかった。  彼にとって、『未来』『将来』は、せいぜい、どこの大学のどの学部に進学するか、ぐらいのことでしかなかった。  草薙は、自分の幼さを痛感させられ、愕然とした。  (圭先輩は、僕との関係に、未来がないって思ってるんだろうか・・・?)  黙り込んだ草薙を、鷺沢は、同情するような眼差しで見詰めた。  「余計なお世話なのは分かってるんだけど。草薙君は、まだ若いし、よく、先の人生のことも考えたらいいんじゃないかな? 柏木君とのことも、今すぐ結論を出す必要はないと思うけれど、女性とも交際してみるのは、全く悪いことじゃないと思うし。」  いつの間にか、テーブルの上で強く握りしめていた草薙の拳を、鷺沢は、その細くて柔らかい指先で、優しく撫でた。その僅かな触れ合いからでも、男とは異なる柔らかい肉体を感じ、草薙の若い肉体は、ピクリと反応した。  身体を震わせた草薙から、鷺沢は、反射的に驚いて手をのけると、 「あ、ごめんなさい。ちょっと馴れ馴れしかったわね」と、照れ笑いした。  草薙は、頬を赤らめながら、無言で、首をぶんぶんと左右に振った。  (やだな・・・。僕、別に、この人に興味ないのに。ちょっと指が触れただけでも、全然、男とは違うんだな。世の男性が、好きでもない女の人と浮気するのは、こういうことなのかな? 自分にはない、細くて柔らかい身体を抱きたいって、それが雄の本能・・・?)  自分は、柏木と、この先どうしたいのか。  自分の気持ちが定まったとして、彼も同じ気持ちでいてくれるのだろうか。  鷺沢が言うように、両親や家族は、どう思うのだろうか。  草薙の心の中の嵐は、強まるばかりだった。

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