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64 指輪

 今日は本社で面談がある──  就職祝いにプレゼントしてもらったスーツとは別に、優吾さんが新たに仕立ててくれた新しいスーツ。普段スーツなんて着ることもないから、いざ久し振りに着てみるとやっぱり気持ちが引き締まる。ネクタイも何本かあったほうがいいと優吾さんが俺に買ってくれていた。それを選ぼうとクローゼットの中を漁り何本か出してみると、下に見慣れない小さな箱が転がっているのに気がついた。  寝室のクローゼットは優吾さんと共同で使っている。共同とは言ってもほとんどが優吾さんの服で、俺のものは少ししかない。端にある優吾さんが使っている棚から転がり落ちたのか、その見慣れない箱は僅かな俺のスペースにちょこんと置かれていた。 「なんだろうこれ?」  なんだろう? と言いつつも、俺にもわかるその小さな箱。箱に上品に記されているブランド名といい、大きさといい、間違いなくそれは指輪なのだとわかる。おそらく特別な意味のある指輪。俺はひと呼吸して、とりあえずその小箱をそっと優吾さんの棚に戻した。 「いつからここに?」  相変わらず優吾さんは帰っていない。もしかしたら俺が留守の間に帰っているのかもしれないけど、会えてないのだから帰ってきていないのと同義だった。  ここしばらく俺は不安で寂しくて情緒不安定だった。工場長と飲みに行ってからは僅かながら食欲は戻り食べられるようになっていた。それでも不眠は続くし本調子ではない。だから仕事や昇進試験のことだけを考えるようにして自分を誤魔化しながら過ごしていた。  隠すようにしてここにあった指輪。  その意味を考えるとどうしても胸が騒つく。見つけてしまった罪悪感。優吾さんが帰ってきて会うことができたらちゃんと話したほうがいいのだろうか? それとも気付いてない風を装っていたほうがいいのか? 俺にはそんな器用な真似は出来なさそうだから、やっぱり帰ってきたら正直に聞いてみよう。  今日はこんなことを考えている場合ではないのに、これまで不安だった分、俺の中での反動は大きかった。  ひとり朝食を済ませ食べたものを片付ける。再度身なりを整えて、俺は面談を受けるべく本社へ向かった。  ここから本社へは電車の乗り継ぎで工場に行くより時間がかかる。高校の時の就職面接以来だ。この路線は優吾さんの別宅のマンションも見えるんだっけ……と俺はぼんやりと窓の外を眺めた。  今日は通勤時間から少しずれているので電車内も混んではおらず人も疎ら。ゆっくり座ることが出来たけどこれから本社勤務になったら間違いなくラッシュ時の通勤になるのだろう。それだけがちょっと億劫だな……なんて考えながらも、俺の頭の中はさっき見た指輪の存在でいっぱいだった。  面談も無事に終え、簡単な適性検査も同日中に済まされた。工場長がどういう風に推薦してくれたのかはわからないけど、とにかく終始和やかに話が進み、早ければ来月からにでも移動になりそうな雰囲気だった。どん底にあった重い気持ちが一気に晴れ渡り、高揚感すら湧いてくる。運気が好転、と言ったところか、俺はつくづく単純なんだと自分を笑った。    そのまま俺は勤務先の工場に寄る。今日は面談が終わればそのまま帰っていいと言われていたけど、工場長にはすぐにでも報告をしたかったので顔を出すことにした。工場長は俺の顔を見るなり笑顔を見せ、面談のことではなく俺の顔色が良くなったととても喜んでくれた。  忘れもしない二十四歳の春の話──  俺はまた、ここで新たな人生のスタートを切った。

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