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74 砕ける

 イライラする──  元を辿れば全てが自分の犯した失態だ。わかっているから余計に腹が立つ。「馬鹿じゃないのか? 何やってんだよ」と心の中で自分を罵倒したところでこの状況はどうしようもならない。 「凄い! まさかこんなに広い一軒家に一人暮らしだなんて思わなかった」  嬉々として美桜ちゃんがパタパタとスリッパの音をたてリビングをうろついている。店を出る時は「酔っ払っちゃった」なんて言いながら俺の腕に掴まりフラフラと歩いていたはずだけど、どうやらタクシーに乗っているうちにすっかり酔いも覚めたらしい。足取りもしっかりしてるし、やっぱり酔っ払っているのは申し訳ないけど俺の方だ。 「凄いね! これ私知ってるよ。バカラの限定、素敵! このタンブラーとデカンタ、セットなんだよ。一箇所にまとめて飾っておけばいいのに……」  美桜ちゃんがグラスを収納している棚に顔をくっつける勢いで覗き込んでいる。俺には何を言ってるんだかさっぱり意味がわからない。いつも酒を飲む時とか水を飲む時とか、手にすっと馴染んで持ちやすいこのグラスを日常的に使っていたから、いくつかあるグラスのうち二つは取り出しやすい手前に置いていた。もちろん優吾さんもそういう風に使っていた。  よく見るとワイングラスやタンブラー、そこに並ぶグラスのほとんどが同じブランドの物らしく、美桜ちゃんがえらく喜んで話をしている。どうやらとても値段の高いものらしい。  改めて見ると、ここにしまわれているグラスや食器、優吾さんが持ってきたものもたくさんあるけど、優吾さんが好んで使っていたのは俺が同棲前に張り切って買い揃えたお揃いの安物ばっかりだったな。俺にはわからないけど、きっとこの棚の中はちぐはぐでおかしな事になっているのだろう。 「安田君、ワインとかないの? 私これで飲みたいな」  徐に美桜ちゃんが棚を開けワイングラスを手に取った。 「何してんだよ! 勝手に触るな!」 「きゃっ!」  まさか勝手に棚を開けて手にするなんて思わなくて驚いたのと、そのグラスが何年か前に優吾さんが俺のために買ってくれた思い出のグラスだったのとで焦ってしまい、思わず大きな声をあげてしまった。目の前の光景はまさにスローモーション。美桜ちゃんの手から離れたワイングラスはゆっくりと硬い床へ吸い込まれるようにして無情にも落ちていった。 「あ……あっ!……私、ごめんなさい! ああ……どうしよう、ごめんなさい……」  派手な音を立て、美桜ちゃんの足元にガラスが散らばる。オロオロしながら美桜ちゃんがそれを触ろうとしゃがみ込んだので俺は慌ててその体を抱き抱えその場から離れさせた。 「いいよ、ごめん……俺が急に大きな声出したから。怪我ない? 見せて……」  幸い美桜ちゃんの指や足には傷一つ付いていなかった。 「ごめんなさい……私、私……嬉しくって調子乗っちゃって……勝手にこんなことして……ごめんなさい、本当に……ご……ごめん……」  震える指で口元を押さえ、いまにも泣きそうな顔をして俺に何度も謝る美桜ちゃんを見て、謝るのは俺の方だと心底思った。俺がちゃんと話していれば、面倒臭がらず向き合っていれば、お互い嫌な思いをしなくて済んだはず。 「ごめん、美桜ちゃんは悪くないよ……」  不思議と割られてしまったワイングラスに関しては何も感じなかった。ただの思い出の品。特別大事にしていたわけじゃない。もうこの家の中の物に優吾さんの姿、思い出を重ねて精神を落ち着かせなくても大丈夫になっているから。  美桜ちゃんがグラスを手に取った事が突然だったから驚いただけ。そう、ただ驚いたからあんな風に大きな声を出してしまったんだ。  とうとう美桜ちゃんは泣き出してしまい「ごめんなさい」とひと言吐き捨て家から出ていってしまった。  しょうがない。俺だったらこんな空間、いたたまれなくて耐えられない。俺は散らばったガラス片を片付けながら、美桜ちゃんはここからちゃんと帰れただろうか、と、ぼんやりと思った。

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