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80 強かで賢い
朝方目が覚めると橋本さんの姿がなく、早くに起きて帰ってしまったのかと寂しく思った。時計を見ると予定の時間よりだいぶ早かったのでもう一度寝ることもできたけど、一度目が冴えてしまえばもうベッドに戻ろうとは思えず、俺はそのまま階下へと下りた。
「あれ? おはよう……もう帰っちゃったのかと思った」
橋本さんはリビングから出られる小さな庭のスペースでタバコを吸っていた。俺が声をかけてもサッシが閉まっているため聞こえないのだろう。俺に背中を向けたまま、橋本さんは振り返らずにタバコを吸い続けていた。
水道からコップに一杯水を汲み、ぼんやりと橋本さんの後ろ姿を眺めていると、タバコを吸い終えた橋本さんが俺の姿に驚いて煙を払う仕草をしてから部屋に戻った。
「おはよう、べつに換気扇の下で吸っても良かったのに」
橋本さんにも水を飲むか聞きながら、俺は棚からグラスを取る。
朝起きても誰かが一緒いてくれることに喜びを感じる。目が覚めて橋本さんが帰ってしまったと思った時に感じた寂しさに、少し勘違いしそうになった。
「橋本さんもっとゆっくり寝てても良かったのに早起きなんだね。……えっと、昨晩はありがとう……」
昨晩この人に添い寝してもらったんだと思ったら照れ臭くなった。大人だし、ましてや恋人でもないのに腕枕までしてもらって……橋本さんにギュってされ、頭頂部にキスまでしてもらって安心して眠りについただなんて、どれだけ俺は甘えていたんだと思うと恥ずかしさで目も合わせにくかった。
これ、きっとセックスするより恥ずかしい……
「公敬君がゆっくり寝られたみたいで良かったよ。寝顔も可愛いからキスしたくなっちゃった」
橋本さんはふざけてそう言ったんだと分かったけど、俺はその言葉に少しだけ期待してしまった。
「……キス、しちゃってもよかったのに」
俺の言葉が聞こえていなかったのか、橋本さんはスッとキッチンの方へ行きゴソゴソとコンビニのビニール袋を取り出した。その袋の中にはパンやおにぎり、牛乳、野菜スムージー、ヨーグルトなど様々な朝食メニューが入っている。
「冷蔵庫、あんまり入ってなかったからさっきコンビニ行って買ってきた。朝メシはパン派かご飯派かわかんなかったから色んなの買ってきたけど……何食う? 公敬君今日は出勤だろ? ちゃんと食わないとな」
見事にスルーされちゃったな、と橋本さんの反応にがっかりしながら袋を受け取り、中から美味しそうな惣菜パンを取り出した。「これ新製品だよね」なんて言いながら、お礼を言って二人でテーブルにつき朝食を食べる。ちょっと買いすぎたから分けっこしようなんて可愛いことを言う橋本さんを見て、俺はさっきは何を期待してたんだろうと自分でもよくわからなくなった。
「ねえ……一つ聞いてもいい?」
「ん? なに?」
朝食を済ませた俺は出勤する準備をしながら、朝のニュースを見ている橋本さんに声をかける。ずっと気になっていたこと……知ったところでどうしようもないこと……そんなの分かっているけど、これは見ないように心の奥にずっと隠して燻らせていたことだった。
「優吾さんの奥さんて……どんな人?」
「え? それ俺に聞く?」
橋本さんは少し嫌そうに、テレビに顔を向けたままそう言った。
「だって知ってるんだろ? いいじゃん、聞かせてくれたって。別に聞いたからってどうこうしようなんて思っちゃいないし……そう、単なる興味本位」
「いい女だよ。強かで賢い。あいつは運がいい……」
……いい女。
橋本さんにまでそんな風に言わせるほどの素敵な女性なんだ。どのみち男の俺にはそんないい女に敵うはずもなく、俺は興味本位で聞いたものの、ただ気分が落ちただけだった。それにたとえクソみたいな女だったとしても、それはそれでやっぱり俺は落ち込むのだろう。
「ほら、聞かなきゃよかっただろ? 公敬君、馬鹿だねえ……」
自分から聞いておきながら何のリアクションもできなくなっている俺を見て橋本さんが笑う。
「馬鹿じゃねえし……なんとも思ってねえし……」
何となく図星を突かれたようでイラッとした。いや、橋本さんは何も悪くない。自分で聞いておきながらイラついてる俺は橋本さんの言う通り馬鹿なんだ。
「じゃ……俺、仕事行くね。鍵は玄関の外の植え込みにでも突っ込んどいてよ」
そう言って俺は橋本さんを家に残して仕事に出かけた。きっともう、しばらくは会うこともないだろうから。
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