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94 抱いてよ
マサには片思いをしている相手がいた。
マサは高校生の頃に家出をしていて、遠い親戚だという男に拾われた。その男がマサの勤め先でもあるあのバーのマスターだった。寝食を共にするうちにすっかり惚れてしまったのだそう…… ひと回りも年が離れていそうな男を好きになってしまったというのも自分でも驚きだし、おまけに子ども扱いしてくるのが堪らなく嫌なんだと、酒に酔った時に何度か漏らしていた。それでももうかれこれ五年、想いを伝えずとも彼の一番近い距離に落ち着くことが出来て、穏やかな日々が送れているから幸せだとも言っていた。
きっとそのマスターと何かあったのだろう……そう踏んで俺はマサの隣に腰かけ、話を聞いてやるからと言って顔を覗いた。
「安田さん、俺のこと抱いてよ……」
マサの突拍子も無い言葉に思わず吹き出す。いやいや、何でそうなる? そもそもマサだって俺が受け身だって事は知ってるはずだ。そう思ってちょっと冗談っぽくマサに「ないないない!」と言って笑った。
「……ごめん、ダメなんだ……お願い、俺のこと……抱いて」
マサは俺の笑いにもちっとも乗らず、いたって真面目にそう呟き俺にしがみついてきた。
震えてる……
俺の胸に顔を押しつけるようにして、また「抱いて……」と懇願するマサに妙な情が湧き、複雑な気分になってしまった。
「とりあえずさ、わかったからちゃんと理由を説明して? それによっちゃ俺は断るかもしれないけど……」
そう言ったものの、これ以上マサの辛そうな顔は見たくないと思ってしまう。不思議と俺の中で「断る」という選択肢は無くなっているように感じた。抱く側なんてやった事ねえのにな。
「………… 」
マサは黙って俺から離れると、極々小さな声で話し始めた。
「マスターさ、病気なんだ。余命宣告されたって……でもそれ以上のことは教えてくれない。店は俺の名義にしてもう任せるからって……勝手にどんどん話するから俺……頭が全然追いつかなくて」
マサの話すことがあまりにも衝撃で、俺はなんて声をかけてやればいいのかわからなかった。
「俺、ちゃんと告白したよ。好きなんだって。言わないつもりだったけど、あんなこと言われていきなり先の事が真っ暗になっちゃってさ……気づいたら好きだって言っちゃってた。でもマスター困った顔して笑うだけだった」
そしてどうしたらいいのかわからなくなったマサは店を飛び出してしまったらしい。
「いや、気持ちはわかるけど、今日は出勤じゃなかったの? 店、大丈夫なの?」
「別に俺いなくても暇なんだから大丈夫だろ……」
確かにいつも客は少なく暇そうだ。それにしたって、その話から何で俺に「抱いて」なんて言うことになってんだ? 俺は話の続きを聞くためにマサの顔をまた見つめる。最初よりだいぶ落ち着いてきた様子のマサは俺の言いたい事がわかったのかまた話を始めた。
「ずっと前にさ、一緒に飲んでて恋愛観の話になったんだよ。マスターもゲイだってその時教えてくれたんだけどさ、もう恋愛は懲り懲りなんだって……面倒臭いんだって。軽く付き合えるような奴じゃないと無理だって。俺、思いを伝える前に玉砕。笑えるよね……それでも俺はマスターのことがずっと今まで好きだったんだ……」
俯いたマサの太腿にポタリとひとつ雫が落ちる。そしてポツリポツリとズボンに滲むその染みを俺はジッと見つめながらマサの話を聞いていた。
「ダメなんだって……特に経験のない奴は面倒だって。だからさ……安田さん、俺のこと抱いてよ。お願いします……抱いてください」
マサはマスターに抱いてもらいたいがために俺に「抱いて」と言っている。何も経験したことがないから、なにもかも初めてだから、マスターに相手にしてもらえないと泣きながら訴えるマサに、俺は言葉が出なかった。
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