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121 あの日から……
橋本さんは換気扇の下で一人タバコを燻らせていた。
「橋本さん、おはよ。早いね……」
「はよっ。うん、ちょっと仕事で打ち合わせ」
昨夜の失態に少し気不味い気分だったけど、橋本さんはいつもと変わらず接してくれた。
「昨日は、ごめん」
「ん? 全然、そんなの気にすんな。てか俺の方こそごめんな。ちょっと軽率で配慮が足らんかった」
橋本さんはそう言って俺に対して謝ってくれたけど、そんなの全然悪くない。あれから何年経ってると思ってるんだ? 橋本さんだってまさか俺があんなに動揺するなんて思ってもみなかったのだろう。
「まあ、優吾さんにも事情ってもんがあったんだろ? 驚いたけど、それだけだからさ、俺は大丈夫。だから気にしないでね」
「なんだよ……起きてたのか?」
「ううん、半分寝てたし」
昨晩の話をもう一度ちゃんと聞いてみたいと言ってみたけど、それは俺が話すことでもないからと結局何も教えてもらえず、軽くはぐらかされてしまった。
「まあ、そういう人だよね……」
仕事に向かう橋本さんを玄関で見送りながら、俺はひとりごちた──
優吾さんが離婚したと聞かされてから、俺は少なからずまた会えるのかと期待した。
今更会ってどうするのか……
確かにそれも思ったけど、橋本さんの話を聞いてからは燻っていた怒りのような感情は小さくなった。できることなら本人から話を聞きたい。一方的に別れを告げられ拒絶されたあの時の俺を救ってやりたいと思ってしまった。
そんな俺の期待を裏切るかのように何の音沙汰もなく月日が過ぎて行く。連絡先だってあの時から変えていない。連絡をしようと思えばいくらでも方法はある。橋本さんとだってまだ繋がっているはず。それなのに連絡がないということは、向こうは俺と会う気はないのだとわかった。
本当にもう会うことはないのだと諦めかけたある夜、俺は仕事を終えて真っ直ぐに家に帰ると門の前に人影があることに気がついた。
緊張で胸が痛む。間違いようもない、あの人影は優吾さんだと確信した。
急に足が重たくなったような気がする。優吾さんと対峙して俺は冷静でいられるだろうか。昔みたいに情けなく泣き縋るような真似はしないにしても、まともに会話ができるか不安になった。
「今更何しに来たんだよ。よく俺の前に顔出せたな。てか優吾さん老けたね。俺だってもういいおっさんだよ」
顔を合わすなり精一杯の強がりで軽口を叩く。確かに歳月を経て優吾さんは老け込んだように見えた。でもそれはお互い様だ。むしろ老け込んでしまったのは俺の方で、優吾さんはあの時のままの優しい眼差しで俺のことを見つめていた。
「今でもここに住んでくれてて嬉しいよ」
「いや、だってここ俺の家だし。そうだろ?」
優吾さんは俺の顔を見ても昔と変わらず接してくる。俺ばっかり動揺しているみたいで悔しかった。おまけに一言も詫びがない。何か俺に言うことはないのかと問うたら、見透かしたように少し笑って「謝る気はない」と言ってのけた。
「ほんと、何しに来たんだ? 俺がお茶でも飲んでく? とか言うと思う?」
「いや、元気そうでよかったよ。今日は公敬君の顔を見に来ただけだから……」
力なく笑ってそう言った優吾さんはそのまますんなり帰って行った。
一気に力が抜けていく。
俺は一体何をしてるんだ。せっかく優吾さんが会いに来てくれたと言うのに、動揺して強がって、子どもじみた事ばかり言ってしまった。
一人ぽつんとリビングに立つ。
かつて二人で過ごした数々の思い出が一気に蘇ってきて辛くなった。
信じられないけど、あの絶望した日からもう十八年も経っている。
でも、俺の中で蘇ってしまった思い出はつい昨日のことのように鮮明だった──
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