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第19話 続・山田オッサン編【16】

「あー課長スンマセン、ここのコレなんスけどねぇ」  書類仕事の最中、山田は近くを通りかかった課長を呼びとめた。  わざわざ課長の席まで質問しに行くのは面倒くさいから、アッチから来てくんないかなぁ。そう考えてたら早速、網に掛かってくれたというワケだ。 「どれ?」  やってきた課長は山田よりいくつか年上、佐藤や田中ほどの上背はないけど、甘めのツラはそこそこイケメンの部類。奥さん1人、子供が2人。社内の女子社員との不倫ネタをちょいちょい耳にする。  こんな野郎は、立ってるものは親でも使え的に動かしてやるぐらいでちょうどいい。 「この金額んトコなんすけど、もーちょいどうにかしちゃってもいいかなぁってオレ的には思うんすよねぇ。向こうの要求してるコトよくよく考えてみたら……」  頬杖をついてボールペンの先でディスプレイを指していた態度の悪い部下は、ふと被さる影に気づいて目を見上げた。  片手を椅子の背に置き、片手をキーボードの横に置いた課長が、山田のこめかみの辺りに顔を寄せて画面を覗き込んでいた。  従って、至近距離でそのツラを拝むことになった山田に課長が目を寄越して笑顔を見せた。 「あ、なんか老眼始まったのか、最近見づらくてね」 「老眼って近くが見えづらくなるんじゃなかったでしたっけ」 「細かい文字が読みづらいんだよねぇ」 「拡大しましょうか?」 「いや、いいよ。山田くんは目、いいんだっけ?」 「俺は両目1.2っす。だからあんまり近寄るとアラが見えちゃいますよ」  山田は身体を傾けて、相変わらずの至近距離にある課長のツラから僅かに逃れた。が。 「じゃあ、見つけたアラを教えてよ」  にこやかに言った課長がますます身を乗り出してディスプレイを覗き込み、空けた距離はすぐに詰められた。 「で? 何だっけ?」 「えーっと、ですからぁ、ココの、コレがっすね?」 「うん、ソレね」  山田は再び、画面から斜め上に目を転じた。 「──見てます?」 「うん、見てるよ」  課長は答えるが、一体何を見てると言うのか。その目は明らかに画面ではなく山田に向いていた。 「山田くん、シャンプー何使ってんの?」 「はぁ?」 「いい匂いするなぁって思って。ウチの嫁にさぁ、帰りに何でもいいからシャンプー買ってきてって頼まれてるんだけど、何でもいいっていうの困るんだよね」 「はぁ、いや、自分で買ってないんでオレ。何使ってっかわかんないんスよ。てか男モンじゃねぇかなぁ、奥さん向きじゃないと思いますよ?」 「そっかぁ、だよね」 「ですね」 「自分で買ってないってことは、佐藤くんが買ってるの?」 「は?」 「一緒に住んでるんだよね? また」 「──」 「いいよねぇ、会社の同僚と仲いいって」 「はぁ、てかあの」 「でもいい匂いするなぁ。シャンプーじゃなくて山田くんの匂いなのかなコレ」 「加齢臭か柔軟剤のどっちかじゃないスかね」 「そう? こんな加齢臭なら歓迎だなぁ」 「てか、あのね課長、オレはコレについて質問してんですけど聞いてます?」  画面をボールペンの尻でバシバシ叩きながら素早く辺りを窺うと、なんと課内はいつの間にか無人だった。どうりで、こんなコントを繰り広げていても周囲からクスクス笑いすら聞こえないはずだ。  課長は知ってたのか、誰もいないことを?  伸びてきた指が髪に触れてイジり始め、ここはひとつ質問を中止して席を立つべきか、エロ上司を突き飛ばすべきかを考えかけたとき、山田の計画とは逆の方向──つまり、遠ざけるのではなく山田のほうに、エロ上司が突き飛ばされて覆い被さってきた。 「わ!」 「!?」  課長のシャツの胸元を顔面で受け止め、仄かに甘いトワレを嗅いだ山田の耳に、聞き慣れた声がしれっと届いた。 「あ、すみません。気がつかなくて。大丈夫スか? 課長」 「うん大丈夫だよ。ゴメンね、邪魔だったかな」  気を悪くした風もなく応じて身体を起こした課長の向こうに、鈴木係長の涼しい笑顔が見えた。 「あ、いたんスねぇ山田さん。そうだ佐藤さんが呼びに来てますよ、ほら──」  鈴木が指し示した二課部屋の入口に、同居人が殺気を背負って立っていた。

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