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第77話 続・山田オッサン編【50-1】

 仕事から帰ってマンションの通路を歩いていると、隣の玄関前に見たことないヤツが立っていた。  両手を後ろに組んで脚は肩幅、背筋を伸ばしてやや顎を上げてまっすぐ立つノータイのスーツ野郎はどう見ても筋モンの番犬にしか見えなくて、山田は自分ちのドアに鍵を差し込んだまましばしそっちを眺めた。 「何かご用っすか」  視線に気づいた番犬がこっちを見て言った。  そう訊かれると別に用事なんかない。だから山田は、 「いえ、ご苦労様っす」  そう言って鍵を開けて自宅に入り、上着とネクタイと鞄をソファに放って煙草を咥えると灰皿を持ってベランダに出た。 「──」  ベランダに出て隣をチラリと覗いた途端、そこで一服していた見知らぬ男がこっちを見て目が合った。 「こんばんは」  今はセクシィ下着どころか洗濯物の一枚もブラ下がってないスペースから、明らかにカタギとは一線を画す風情のスーツ野郎が煙草を咥えたまま挨拶を寄越した。  年の頃は山田より少し上くらいか、佐藤ほど長身ではないもののシュッとして姿勢がいい。  こんばんは、と返してライターを擦る山田に、野郎はのんびりした口調で続きを投げてきた。 「いい夜ですねぇ。月がキレイだ」  見上げると藍色の夜空に、満月にはちょっと足りないくらいの白い月が煌々と光っていた。 「はぁ、そうっすねぇ」 「そちらも外で一服ですか」 「えぇまぁ室内は禁煙でして」  山田は大嘘を吐き、ところで玄関前の犬ッコロはお宅の飼い犬ですか? とノドまでせり上がる質問をウズウズしながら堪え、代わりに言った。 「エリ──秋葉さんのお友達ですか」 「兄です。弟がお世話になってます」  マジか。  エリカの野郎、目付きは悪ィし名前は古風だしボウズだし、控えめなサイズで洋風ではあるものの紋々は入ってるし、そりゃあたっぷり怪しいけどホンモノだったのか?  それにしても言われてみればこの男、どうりでエリカとよく似た目付きの悪さだ。 「あの……」  山田は意を決し、まず気になったことを訊いた。 「お兄さんのお名前は何と仰るんですか?」 「名前?」 「ファーストネームです」 「──」 「いやあの、弟さんのフルネームがカッコイイんでお兄さんもそうなのかなと」  するとどういうわけか秋葉兄が眉を顰め、咥え煙草の煙を透かしてもともと感じ悪い目を険悪に眇めた。 「本当は知ってて揶揄ってるんですかね」 「は?」  つい間の抜けた反応を返してしまったが、逆にそれで正解だったのかもしれない。山田の阿保面がよほどおかしかったのか、エリカの兄貴はふと目ヂカラを緩めて苦笑した。 「楓ですよ。秋に紅葉するカエデ」 「はぁ……」  秋葉楓──だぁ?  全身から匂い立つような独特の世界の空気をたっぷり嗅ぎながら山田は思った。どのツラ下げて楓だって? 「弟の名前とえらい違いだと思ってるんでしょう?」 「いえ……」 「親父がフザけてね。弟のときには反省して真面目に命名したようですが」  マジメに付けた名前が龍之介か。  ツッコみたいのを我慢して言葉を呑み込み、山田はそれこそ大真面目に言ってみた。 「楓さんって名前、いいじゃないスか。何がいけないんです? キレイですよ。それこそ、あの月みたいにね」 「──」 「あ、カタチ全然違いますけど。色も。えーっと、風流のレベルが同じくらいっつーか?」  だんだんテキトーになっていく山田の言葉を、しかし秋葉兄は気分を害した風もなく黙って聞いていた。 「むしろ失礼でなければ楓さんって呼ばせてほしいくらいっす。あんまり会うことはないと思いますけど」 「そちらの名前を聞いてないな、お隣さん」 「あ、失礼しました。山田です」 「フルネームで」  灰皿に灰を落とし、上目遣いに横目をくれて寄越す。ホラホラその目! どー見たってカエデちゃんじゃねぇだろ!? 「山田一太郎です」 「本名?」 「バリバリの本名っすよ」 「じゃあ、一太郎さん」 「──は?」 「あんまり会うことはないっていうさっきの発言、撤回してもらってもいいですかね」 「──え? どういう……」  訊きかけたとき、隣のサッシが開いて坊主頭が覗いた。 「兄さん、親父から電話が……あれ、こんばんは山田さん」 「あ、どーも。こないだはお疲れさん」  こないだってのは闇鍋のことだ。あのときはとにかくもう散々だった。 「もしかして2人で煙草吸ってました?」 「さっきからね」 「あ、兄さん電話出てくれるかな。携帯に出ないって俺のほうにかけてきてうるさくて」  エリカが言うと、兄貴は溜息を吐いて煙草を消した。 「煙草の1本ぐらいゆっくり吸わせてほしいな、全く」  渡されたスマホを手に兄貴が部屋に引っ込むと、エリカは山田を見て大丈夫でした? と訊いた。 「大丈夫って何が?」 「何か言われたりされたりしませんでした?」 「別に。名前なら教えてもらったけど」 「え、名前って兄さんの?」 「そうだけど」 「まさか山田さんが訊いたんですか?」 「そうだけど」  言って煙を吐く山田を、エリカはしばし無言でガン見して寄越した。兄貴と酷似したその目は、悪気はないのかもしれないが相当感じ悪い。 「怒りませんでした?」 「最初ちょっと怒りかけたかもなぁ。まぁでもちゃんと教えてくれたぜ?」 「名前は兄さんのコンプレックスなんですよ」 「そうみてぇだな」 「そんな話もしたんですか?」 「うんまぁ、チラッとな」 「驚きましたね」  とか言いつつ、エリカのツラは全然驚いてる風には見えない。

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