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第79話 続・山田オッサン編【50-3】

「フルネームで?」 「いや、ファーストネームを」 「楓さん?」 「もう一度」 「楓さん」  すると秋葉楓の険のある面構えに、初めて自然な笑顔が浮かんだ。そうやって笑うと案外愛嬌があって、ちょっと子供っぽいフィルタがかかったようで印象が一変した。 「いいですね」  嬉しそうに言った兄貴は、珍しくわかりやすい形で驚きを表している弟──むしろそのツラに山田が度肝を抜かれた──に向かってじゃあなと声を投げてから背を向け、一度振り返って付け足した。 「龍、趣味はあんまりやりすぎるな。親父の目に触れたらショック死するかもしれねぇ」 「気をつけるよ」  答えたエリカは兄貴が消えると、もはやいつもどおりのツラを山田に戻して呟いた。 「あぁビックリした」 「いやその顔はビックリしてるように見えねぇよ」 「兄さんがあんな顔で笑うところ、今まで見たことあったかな」 「あんなに感じ良くなるなら、もっと笑えばいいのにな」  新たな1本を咥えて火を点ける山田をエリカは物言いたげに眺めていたが、何も言わないから山田のほうが口を開いた。 「兄貴はいくつなんだ?」 「37ですかね」 「エリカとだいぶ離れてるよな」 「じつは間にひとりいるんです。もうずいぶん前に家出して、どこにいるんだかさっぱりわからないんですが」 「どこの家庭もいろいろあるな」  山田は呟き、ふと思いついて訊いた。 「ちなみに真ん中は何て名前なんだよ?」 「寅次郎です」 「──もっかい言って?」 「寅次郎です」  山田は数秒黙った。 「……客観的に言わせてもらうとさぁ、家出して行方不明なのは名前のせいだと思うぜ? オレ的に」 「可能性は否定しません」 「あんたの名前は残り物に福があったワケだな」  龍之介がどんだけの福なのかはよくわかんないけど。 「それはそうと山田さん、兄さんが変なこと言ってすみません。迷惑かけないよう言っておきますけど、何かあったらすぐ知らせてください」 「あぁいや、最近佐藤が残業でいねぇことが多くてヒマだからって、俺が物見遊山でちょっかい出したのがいけねぇんだ。あんたには余計な心配かけて悪かったけど、まぁちょっと俺のほうでどうにかしてみるから兄弟喧嘩すんなよ」 「山田さん、ホントはやっぱりどっかの関係者なんですか?」 「いや別に?」  山田が言ったとき背後で物音がして、振り返ると同居人の顔が覗いていた。 「あれ佐藤、今日は早かったな」  ベランダに出てきた佐藤は山田の唇から煙草を奪って咥えると、なんの挨拶もなくこう言った。 「今、廊下で番犬連れたヤクザみてぇなのとスレ違ってよ」 「──」 「俺が玄関開けんのをじっと見てやがるから何だと思ったら、お前の同居人かって訊かれたぜ山田。正確には、一太郎さんの同居人の方ですかね……ってな?」  佐藤は目を眇めて煙を吐き、続けた。 「アレは何だ?」 「あ、えーと」 「すみません佐藤さん、俺の兄です」  エリカの声に佐藤は隣のベランダに目を向け、数秒眺めてから言った。 「言われてみりゃ似てんな」 「で、訊かれて何つったんだよ佐藤?」 「ウチの嫁が何かやらかしましたかって訊き返した」 「──」  無言になった山田の代わりにエリカが訊いた。 「そしたら兄は何て?」 「何でもない、引きとめてすみません的なこと言って行っちまったけどよ。あんたの兄貴が山田に何の用だ?」 「いえ俺のとこに来てたんですけど、ベランダで山田さんと会ってちょっと話したんで、好奇心で訊いたんじゃないですかね?」 「見たところ、好奇心がどうとかってタイプの兄貴じゃなくねぇか」 「否定はしませんが」  エリカが答えると佐藤は煙草を消し、山田の腕を掴んで低く言った。 「まぁいい──経緯はじっくり、コイツから聞かせてもらうことにすっから」  翌晩。  仕事帰りに地元の駅を出てチンタラ歩いていた山田は、脇を追い越して行った黒いレクサスがすうっと路肩に寄って停まるのを見てギクリとした。  が、透過率の極めて低そうなリアガラスとドアガラスを見て、少なくとも母の愛人の長男ではなさそうだと安堵したのも束の間、開いた窓の向こうの顔を見てちょっと辟易した。  この男のおかげで昨夜はさんざん、同居人に意地悪されて泣かされた。  そりゃあ原因を作ったのは自分かもしれないけど? でもだからって佐藤のヤツ、何もあんなコトまでしなくたって──と忌々しい記憶が蘇って頬が熱くなりかけたところで、冷水のような男の声を被って我に返った。 「こんばんは、一太郎さん」 「あぁこんばんは、昨日はどうも。てか紛らわしいクルマで近づかないでくんないスかね」 「どういうことですか?」 「いや何でもないっす」 「ちょっと乗りませんか、送りますよ」 「歩いてもすぐの距離なんですが」 「大人しく乗ってくれたら、同居人の方にもご迷惑かけませんよ」 「──」  観念してドアを開けると、隣人の兄貴の相変わらずの眼光に迎え入れられた。運転席の後頭部は昨日の番犬だろうかと思ったら、ルームミラー越しにぶつかった目がやっぱり隣家の玄関前で見たヤツっぽい。  運転手の醸し出す物騒な空気に似合わず、クルマは静かに滑り出した。

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