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第82話 続・山田オッサン編【52】

 帰宅途中、電車に乗ってる間に雨が降り出していた。  降る予報だったってことは会社で知って、でも21時頃からだって聞いたからどうにかなるかと思ってたけど、地下鉄を降りて地上に出たらもう降ってた。  まず、傘はない。今日は財布を忘れたから昼メシ代は佐藤に借りた。定期のICカードの残高は31円、財布がないからキャッシュカードもクレカもない。スマホは決済の類には一切使ってない。タクシーに乗って自宅からカネを取ってくるか──と思っても、タクシー乗り場は長蛇の列。  こういうときに採れる手段は……考えかけて諦めた。同居人が帰ってくるまで駅で待つか。でも多分今日も遅いし、待つと言っても財布がないから飲食店にも入れない。仮に入ったら最後、同居人が帰ってくるまで決して出られない。  途方に暮れるって、こういうコトを言うんだろうなぁ? 山田は思い、いや二進も三進も行かないって表現のほうが正しいか? と思い直し、ほかにもっと適切な言葉がないかを模索しかけてあまりの無意味さに気づいてやめた。  致し方ない。ここはもう、タクシーの行列に並ぶしか──  諦めて大衆に迎合しかけたとき、電話が着信した。画面を見ると同居人からだった。 「ハロー、ディスイズヤマダ」 「ひでぇ発音だな、おい」 「メアイヘルプユー?」 「それはこっちのセリフだ。お前、傘ねぇんだろ?」 「なんでわかったんだよ?」 「それぐらいわかる」  なんでわかったのかの理由はわからなかった。 「で、だったら何だよ?」 「今どこにいるんだ」 「駅。もう地元」 「いまから電車乗るから待ってろ」  どうやら思いのほか早く退勤したらしい。 「お前、財布ねぇし定期の残高も31円だろうが」 「え、なんでンなコトまで知ってんの? エスパー?」 「今朝改札通るときにお前の後ろから見たんだよ。そのへんで適当に時間潰してろ」  同居人は言ってさっさと切り、山田は辺りを見回した。適当に時間を潰せと言われたって、そこらにあるカフェもファストフードも考えてみたらみんな前払いだ。あとで来るヤツが払いますんで、なんて言ったところでカウンターのオネーチャンは相手にしてくれないだろう。  あーあ、いいサンオツになってこんな思いをするなんてよう。胸の裡でボヤいたとき、目の前を通り過ぎたタクシーのナンバーが目に入った。  310──サトウだ。  同居人の苗字を貼り付けた車両が遠ざかって行くのを見送りながら、山田は考えた。  アイツの下の名前はヒロシ──ヒ? ヒって何だろう。ロシは64だよな……あ! ヒはひふみのヒ、つまり1か。てコトは佐藤は310164だ! すげぇ、フルネーム語呂合わせできた!  じゃあ俺は? と考える。ヤ……8、マ……ま? マルで0? じゃあ、ダは? だ──断念した。  イチタロウは1と……タは? タ……ロウは6だろ? でもタがわかんねぇ。あークソ、ダとタのせいで俺の名前完成しねぇ。  そのとき目の前を889が通り過ぎ、その2台あとに881が走り去った。  スゲェ! ハヤクとハヤイ! でもどっちも遅ぇ……!!  それからしばらくはパッとしないナンバーが数台続き、かろうじて1122ってのがやってきた。  よくいるよなぁアレ。いい夫婦? てか独身のヤツが希望じゃなく意図せずあのナンバーになったらすげぇ痛ェよなぁ……。  1122といえば1188ってのも同じくらいよくいるけど、アレはいいパパなのか? それともいい母? 考えてる最中に目の前を3188ってのが通り過ぎた。……サイババ? 「──」  語呂合わせできても別に嬉しいワケじゃねぇナンバーってあるんだなぁ。山田は遠い目をして、まだまだ徒然なるままに考え続けた。  そういや4649ってナンバー見たことねぇなぁ。でもいるはずだよな? そういや893も見たことねぇ。そっちはいるのかどうか怪しいなぁ。  893で隣人の兄貴を思い出して顔を顰めたとき、目の前を1123ってのが通り過ぎた。いい兄さんか、オレの周りはよくねぇ兄さんばっかりだ。山田は思った。同居人だって別に悪い兄貴とは思わないが、弟に訊けば良い兄貴だとは答えないに違いない。  そんなことを思いながら、目の前を横切ったワンボックスのナンバーを見送った。  4281……四つん這い? 咄嗟に閃いた語呂合わせで、昨晩同居人にさせられたことを思い出してしまった。  深夜、佐藤は山田をそういう姿にさせて後ろから指と舌でさんざん──考えかけてやめた。反芻するだけで悶死しそうだ。駅の出入口で突っ立って、雨で冷え込む秋の夜にひとり顔を赤くしてるサンオツなんて怪しすぎる。  が、一旦頭に浮かぶと追い払うのはなかなか厄介だった。  そこを舐められるのを山田が嫌がるってわかってて、佐藤は執拗に舌で責め続けた。しかも舐めるだけじゃ飽き足らず、指で広げたそこに舌を押し込んできやがった。  震えてるぜ? 山田──  耳の中に蘇る、揶揄うような同居人の声。  為すすべもなく下半身を戦慄かせながら枕に額を埋めた山田の両脚を、手のひらが殊更ゆっくり撫で上げる。  ほら、ちゃんと支えてろよ山田── 「ッ……」  だから……思い出したらヤベェって、 「山田、おい」 「わぁ!?」  突然背後から覗き込まれ、山田は飛び上がって喚いた。 「だからっ、後ろからはやめろって!」  目を三角にして振り向くと、今まさに脳内で山田のケツを舐めていた野郎が立っていた。その怪訝そうなツラに、みるみる意地悪な笑みが広がっていく。 「何がだからで、後ろから何すんのをやめろって?」 「は? 何でもねぇし。早かったな佐藤」 「そうか? そんなに時間が早く過ぎるほどじっくり思い出してたのか? ゆうべのことを」 「思い出してねぇからっ」 「照れることねぇだろ、死ぬほど良かったくせに」  言いながら、佐藤は鞄から折り畳み傘をふたつ出して山田に1本寄越した。 「なんでふたつ持ってんの?」 「お前の分も常備してんだよ」 「マジで?」  山田が見上げると、同居人は煙草を咥えて火を点けてから傘を開き、煙に目を眇めた。 「いいから行くぞ、傘差せよ」 「相合い傘しねぇの?」  するつもりもないことを言うだけ言ってみる。 「しねぇ。濡れてお前が風邪ひいたら困るからな」 「──」  山田はそれ以上ツッコむことはせず、大人しく傘を開いて佐藤とともに雨の中に踏み出した。  歩き始めてすぐ、佐藤が訊いた。 「お前、ずっとあそこで突っ立ってたのか?」  そこでクルマのナンバーを見ていたことを話し、佐藤のフルネームが語呂合わせできた衝撃を語って聞かせると、隣を歩く野郎は傘の下で肩を揺すって笑った。 「お前はホントに俺のことしか考えてねぇな、山田」  山田はちょっと言葉に詰まってから、反論する代わりに傘の柄を握り直して言い返した。 「お前だって……そうだろ? 佐藤」

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