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第84話 続・山田オッサン編【54-1】

 佐藤が晩メシの後片付けをしているところに、風呂上がりの山田がパンイチで駆け寄ってきて喚いた。 「やべぇなんか最近肥った気がするー!」 「お前な、この季節にパンイチでウロつくのはやめてくんねぇか。見てる方が寒ィから」 「じゃあ暖房入れようぜ」 「早ぇし、普通に服着てりゃ寒くねぇんだけど」 「てかだから! 見ろよ! 肥ったと思わねぇ!?」  佐藤は洗いかけの皿を手にしたまま、山田を頭の天辺から爪先まで眺めた。 「あのな山田。その胃の辺りが出っぱってんのはな、お前がついさっき納豆チャーハンと餃子と回鍋肉とエビチリを2人前ずつ食ったばっかだからだと思うぜ? むしろあんだけ食ったのにそれだけって、残りはどこに入ってんだよ」 「いやわかんねぇけど、そう? じゃあ大丈夫そう?」 「何なんだお前は。思春期かアラサー女子みてぇなこと言い出すんじゃねぇ」  佐藤が洗い物に戻ると、だってよォと山田は何かブツブツ言いながら部屋に入って行った。  それからほどなくパーカーとスウェット着用で現れた山田は、横に並ぶと佐藤の手元を覗き込んだ。 「俺やろうか?」 「何だよ、珍しいじゃねぇか」 「だって納豆チャーハンと餃子と回鍋肉とエビチリ作ってもらったし」 「餃子とエビチリはチルド惣菜だけどな」 「納豆チャーハンと回鍋肉のほうが美味かった」 「何が狙いだ?」 「はぁ? 何が? いいからどけよ」  身体ごと押されて場所を明け渡すと、山田は洗い物を引き継いで無言になった。  佐藤はテーブルの上の箱から煙草を抜いて咥え、しばしそのまま同居人の背中を眺めた。  見慣れた後ろ姿。肥ったどころか、このトシならもう少し肉があっても良さそうに思える身体は、それでも一時期よりはマシだった。  同居を解消していた1年間、以前よりも間遠になっていたセックスのたびに、また痩せたんじゃないかと繰り返し不安を覚えた。本人は否定していたが、ひとりだとロクにメシも食ってない気配があった。  だから今、佐藤の作ったメシをもりもり食ってくれるなら、ちょっとくらい胃が出っ張ろうが肥ろうがむしろ歓迎すべきことだ。  佐藤は火を点けないままの煙草を放ると山田の背後に立ち、腰に腕を回して耳元に唇を押し当てた。 「ッ、なんだよ」 「いいから続けろよ、奥さん」 「だから誰が……てか割っちまうだろ!?」 「おっとソイツは割るなよ? 一番大事なヤツだからな」 「──」  山田が洗いかけのマグを手にしたまま動きを止める。ソイツは数年前の佐藤の誕生日に山田が寄越したものだった。  佐藤はその日、当時何度か寝ていた女と会っていて、ひと晩帰らなかった。  翌日帰宅すると上がり框のあたりで山田が布団にくるまって眠っていて、周りの床ではビールの空き缶が林を作り、灰皿では吸い殻が山を作り、台所のテーブルの上には簡易なラッピングを施された箱が置いてあった。  あのとき女がくれたバカみたいに高いライターは結局ほとんど使わないまま、いつのまにかどこかに消えてしまった。が、山田が百均で買って来た無骨な無地の黒いマグは、以来佐藤のコーヒーのために毎日働き続けている。 「もっと早く割れるかと思ったのにな」  山田がポツリと言って、再び手を動かし始めた。 「何でだ?」 「や、だって百均だし」 「大事に使ってるからな」 「よく言うぜ。たまたま割れなかっただけだろ? てかだから、そんなくっついてたら……ちょっ」  腰を抱いていた手をパーカーの裾から滑り込ませると、山田の手元で食器が音を立てた。 「そんなくっついてたら何だって?」 「だからっ……危ねぇってっ」 「危ねぇってわかってるなら置けばいいじゃねぇか、その皿を」 「はぁ? 俺は今、洗って──」  言いかける山田の顎を掴んで強引に振り仰がせ、唇を塞いで舐め取るように吸い上げる。ひとつ震えた山田が薄く隙間を開いて誘い、舌を突っ込んだ途端にノドの奥で艶のある呻きを漏らすのが聞こえた。  舌を交わしながら手を伸ばして皿を取り上げシンクに置いたとき、視界の端を黒いマグが掠めて何かが頭の内側で閃いた。  山田が玄関で寝てたのは、あの日が佐藤の誕生日だったせいだろうと今まで漠然と考えていた。が、そういえば少なくとも他に数回、帰宅して玄関を開けると山田が床で寝ていたことがあったと思う。  最近も一度あった。夏の終わりだ。あのとき山田は伽椰子がどうたらってワケのわからないことを言っていたが、ひょっとしたら本当はもっと突っ込んで質すべきだったんじゃないのか。  驚かせないようにゆっくりと唇を離すと、山田の瞼が開いて怪訝そうな眼差しが現れた。  虹彩と瞳孔の深い暗がりに目を奪われ、そこに映る自分の姿に何故か頭の芯が一瞬ヒヤリとした。

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