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第90話 続・山田オッサン編【58】

 佐藤の忙しさもようやくひと段落したらしく、久々に2人揃って帰ることになった。  が。 「悪ィ、ギリギリでひと仕事入っちまったからちょっと遅くなる」  終業時刻を回った直後、佐藤がそんな内線を寄越した。 「それほどかかんねぇとは思うけどわかんねぇから、何だったら先帰ってても……」 「テメェ佐藤この野郎、1時間以上待たせやがったら便所掃除の刑だからな!」  山田は電話を切り、二課部屋を出た。  帰り支度をしていた隣席のナオミはニヤニヤし、どっかの不倫相手と今夜のデートについてスマホでコソコソ相談中だった課長は顔を上げて目を丸くし、他に居合わせたヤツらもみんな笑ってたけど、そんなことは気にしない。  が、しかし。とりあえず喫煙ルームに向かい、煙草を咥えてライターを擦ったら、なんと火が点かない。  ガス切れか石のせいかは知らないが、どいつもコイツも全くガッカリさせやがる。  とにかくライターを調達しに行くしかない。少なくとも一課部屋に乗り込めば佐藤は持ってるだろう。スバルに出くわしたら面倒だけど背に腹はかえられない。  というワケで出入口のほうへ一歩踏み出したとき、不意にそこが開いて人影が現れた。 「あぁ山田さん、お疲れさまです」  微妙に関西風のイントネーション、元後輩を彷彿とさせるナリ。田中んとこの企画課長だ。 「あーどうも」 「最近あんまり会えませんね」 「会えないじゃなくて会わないの間違いじゃないっすかね?」 「間違ってませんよ?」 「まぁいいや、火ィ借りていっすか?」 「どうぞ」  企画課長はにこやかにジッポを擦って差し出す。その炎で煙草の先を焼いて顔を上げると、妙に馴染んだ高低差で元後輩的な笑顔に見下ろされた。 「あの、ナンでいっつもそんなニヤついてんスか?」 「ニヤついてなんかいませんよ」  言って自身も煙草に火を点け、煙を吐く企画課長。 「てかナンでいっつも敬語なんスか? 俺とかにまで」 「誰にでも丁寧に接しておいたほうが下手な波風も立ちにくいですからね。ところでいつになく質問が多いですけど、やっと興味を持ってもらえたんでしょうか?」 「何の興味っすか?」 「逆に質問してもいいですか?」 「はぁ、どうぞ」 「そうやっていつも冷たい態度を取るのはどうしてなんでしょうか」 「どうしてもこうしてもないっすよ、初対面で何やったか憶えてます?」 「初対面のときは僕たち、話もしてませんよ」  そのセリフに山田はしばし、目の前の野郎をガン見した。 「ナニ言ってんスか? 夜遅ぇ時間にここでアンタ、いきなり俺の唇を奪いやがりましたよね?」 「あれは初対面じゃありません。山田さんは憶えてないようですけど、あの前に一度会ってます。昼どきに外の定食屋で、隣のテーブルから何だかやけに見られてるなぁと思ったら山田さん、あなただったんですよ」 「──」  そんな記憶はない。 「そのとき僕はまだこっちに戻ってきたばかりで誰だか知らなかった……というよりピンとこなかったんですけど、あとでわかって。大阪に異動になる前には面識はありませんでしたが、前から有名でしたからね、山田さんの名前は」 「有名って? 同僚と同棲してるとかその手の噂?」 「いろいろありましたけど、その手の噂に限って言うなら、他にも社長の愛人だとか会長の愛人だとか枚挙に暇はありませんでしたね」 「あぁそう、まぁとにかくその定食屋のことは憶えてねぇけど、知り合いに似てんなぁって思ってたんじゃないっすかね多分」  灰皿に灰を落としながら山田は言った。  自分がこの野郎をガン見してたんだとしたら、考えられるのはそれしかない。なんかコイツすげぇ小島に似てんなぁとか思いながら眺めてたんだろう、きっと。  思った途端、 「小島くんですか?」  いま浮かんだばかりの名前が飛び出してきて一瞬の空白が生まれた。 「──は?」 「こないだ別の課の女の子に言われたんですよ、似てるって。小島くんって、修行に来てたどこかの御曹司ですよね。似てるって言っても僕より随分若かったと思うし、僕が大阪に行ってる間に退職してたようですけど……そんなに無意識に凝視してしまうほど思い出深い相手だったんですか?」  言って、ほんの少し首を傾げて覗き込むように目を寄越す仕種までもが元後輩ソックリだ。 「そういえば、彼とも噂になってましたっけ。山田さん」 「ありましたっけ、そんな噂」  それには答えず、企画課長は煙草を捨てて山田に向き直った。かと思うと山田の指から煙草を取り上げ、ソイツも捨ててしまう。 「まだ吸ってんスけど」 「すみません、こないだみたいな根性焼きは勘弁して欲しいんで」  オレ何かやったっけ。  咄嗟に思い出せず反芻しかけた山田は、気づいたら背中を壁に押し付けられていた。  ──はぁ?  見上げたところに、元後輩によく似た野郎が覚えのある角度で近づいてきて、デジャヴのような錯覚に見舞われた山田は触れる寸前の唇を手のひらでストップしていた。 「だからっ、オマエとチューなんかしたらヤベェんだって何度言えばわかんだよ!?」  喚いてグイッと目の前の野郎を引っぺがしてから、ソイツの正体を思い出す。 「……あぁ、アンタか」 「今、誰かと間違えましたよね」 「は? いや別に?」 「僕とキスしたらヤバイなんて、まだ一度も言われたことありませんけど」 「うるせぇな誰としてもヤベェに決まってんだろ!? てか前に! 言った気がすっけど! 俺の唇はウチの同居人のモンなんだから同じこと何遍も言わせんなっ」  言うが早いか山田は喫煙ルームを飛び出し、一目散に一課部屋へと駆け込んだ。 「佐藤おぉっ!!」 「あぁ? どうした」 「早くっ、早く帰ろーぜ!」  自席に座る佐藤に背中から飛びついて椅子ごとしがみつくと、訝しげなツラが振り向いて頬に手のひらが触れた。 「何かあったのか?」 「何でもねぇ……! 何でもねぇけどっ、もう帰りてぇの! もう待ちたくねぇけどお前が終わってなくても一緒に帰りてぇの!!」  すると数秒黙って山田を見ていた佐藤が、しょうがねぇなぁと溜息を吐いて小さく笑った。 「わかったわかった、じゃあすぐ片づけっからそこに座ってろ」  で、やっと大人しくなって隣の席に座った山田は、ふと課長席で身を縮めて息を潜めてる課長と目が合った。 「あれ、いたんスか課長」 「うん、ゴメンね……」

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