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第91話 続・山田オッサン編【59】

 まだこれから秋本番って時期でありながらも雨のせいかやけに冷え込むその夜、山田は帰宅途中にどうしてもピザまんを食いたくてたまらなくなった。  とにかく、どうしてもどうしても、どーーーしても食いたかった。  で、最寄駅から自宅までの間にあるコンビニに寄ってみたら、なんと保温器の中に残り1個だけというピザまんにめぐり逢うことができた。なんたる僥倖!  おかげで停滞中の秋雨前線に見舞われてるやたら寒い夜ではあってもココロはホカホカ、上機嫌でマンションに到着して通路を歩いて行くと、隣家の前に番犬が立っていた。  いつもどおり足は肩幅、手を後ろに組んで姿勢良く立ってはいるものの、髪も服も濡れてるし頬に絆創膏からはみ出してる傷がある上、顎の辺りがうっすら赤く腫れて見える。 「ケンカ?」  ついつい訊いたら威嚇するような目が返った。 「もしかして、ここに来る途中ボスが襲撃されてガードしたとか、そういうアレ?」  構わず訊いたら、今度は唸るような低い返事があった。 「うるせぇ」 「なんか濡れてるけど寒くねぇのかよ? 風邪ひいたらボスを守れねぇぜ?」 「引っ込んでろ」  埒が明かないから自宅の玄関に鍵を差し込んだとき、エントランスが開いたのか、どこからともなく寒風が吹き抜けて行った。  山田は隣をチラ見してから手元の袋を見て、目の前のドアに額を打ち付けた。そのまましばし煩悶してから身体を起こし、また隣をチラ見したら番犬と目が合った。 「ああぁぁぁああクソぅ!!」  山田は拳でドアを叩きながら懊悩し、ふと隣を見るとまた番犬と目が合った。  何やってんだコイツは? その目は明らかにそう言っている。  山田は何事もなかった風を装ってドアを開け、しかしすぐその場にしゃがみ込んで髪を掻き毟りながらまた身悶えた末に、立ち上がって安物の鞄を上がり框に叩きつけた。  ──あぁ全くこんなときに何だってこうなんだよ!?  胸の裡で毒づいてドアの外に戻ると再三番犬と目が合い、依然としてその目は明らかに言っていた。だから何やってんだコイツは? と。  が、もはや気にせずツカツカと近づいて番犬の胸元にピザまんの袋を突き付けた山田はしかし、それでも己への最後の抵抗とばかりに未練がましくその腕を自ら掴んで引き寄せた。 「あぁあ俺のピザまんが!!」 「あのな……何なんだテメェはさっきから?」 「だって寒ィしよう! ケガなんかしてやがるしお前、しかも濡れてるし! ちょっとぐれェあったけぇモンをぅぁああいっこだけあったピザまん!!」  そうピザまん!!  濃厚なトマトソースと、トローリ伸びるチーズの絶妙なハーモニーが……ぁぁああ──ドン! とピザまんの袋ごと、山田は番犬の胸に突っ込んだ。勢いで野郎の背中が壁にブチ当たる。 「食え! 俺の気が変わらねぇうちに! あとお前のボスが出てこねぇうちに! こんな寒ィ廊下でひとりぼっちで突っ立ってる間にちょっぴりあったけぇ思いを味わう権利ぐれェ、お前にだってあるはずだろ……!?」  あぁぁあでもいっこだけ残ってた俺のピザまん!! と番犬の濡れた肩に額を擦り付ける山田の二の腕を、男の手のひらが掴んだ。 「兄さんよ──気持ちだけもらっとくから、それ持ってさっさと帰れ」 「いや言い出しといて翻意するような真似できねぇぜ!? 男に二言はねぇんだぜ! いいから冷めねぇうちに食えこの野郎……!」  胸にピザまんの袋を押し付けて声を絞り出すと、いつもはいきり立ったロットワイラーみたいなツラしか見せない野郎が困惑げに眉を寄せて山田を見下ろしていた。 「何だか知らねぇけど、1個しかなかったんだろうが? テメェで食えばいいじゃねぇか」 「そりゃ今日は1個しかなかったけどよう、金輪際食えねぇワケじゃねぇ。でもあんたをあっためる必要があんのは明日でも明後日でもなく、今じゃねぇか? そうだろ?」 「──」 「頼むから、俺をピザまんから引き離してくれ……」  すると番犬の手が、ナリに似合わない手つきでそっと山田の身体を押し遣った。それから、まだ胸元のピザまんの袋にくっついてる手に手のひらを重ねて引き剥がす。 「わかった、そこまで言うならコイツはありがたくもらっとくぜ。ちょっと潰れちまってるけどな」  そりゃまぁ、山田が体当たりしたんだからホントはちょっとどころじゃなく潰れてるのも無理はない。まぁでも。 「ボスが出て来ねぇうちに食っちまえよ」  未練がましい思いを断ち切る素振りで俯いて男の手から離れたとき、声がした。 「お前ら何やってんだ?」  山田と番犬が同時に顔を向けると、廊下の向こうに山田の同居人が立っていた。 「あ、佐藤おかえり。いやピザまんをだな」 「こっちに来い、山田」  山田の声を遮って佐藤が低く言い、山田はそれ以上何も言えずに番犬から離れて自宅のほうに近づいた。 「なぁ、あのな佐藤」 「話は中で聞く」  ピシャリと言われて玄関の内側に押し込まれた山田はその夜、ピザまんより熱いモノを食わせてもらった。もう腹いっぱいで食えないと泣いて許しを請うほどまでに。  そして数日後、また廊下でボスと番犬コンビに出くわした。 「あぁ一太郎さん、こんにちは」  隣人の兄貴は相変わらずの風情で挨拶を寄越し、山田も相変わらず気の抜けた返事を返した。 「はぁどうも」 「先日はウチの菊池が世話になったようで、すみませんね」  そういやそんな名前だっけ。思って番犬をチラ見すると、一瞬ぶつかった目はいつものように威嚇することもなく、どこか気まずい色合いのまますぅっと逸れていった。  その頬の痣がこないだより増えてるように見えるのは、山田の気のせいだろうか? 「あのとき、ここのエントランスで転んでケガしやがったんで、まぁ……あんまり外で待たせんのは確かに悪いと思ってましたけどね、俺も」  なんとケンカとかじゃなく自爆だったらしい。  山田は思わず目を向けたが、番犬菊池は大人しく主人に従うロットワイラーみたいなツラでそっぽを向いたままだった。 「だから情けをかけてくれたことには感謝しますが、食べ物は与えないでもらえませんかね」 「俺は何もしてないっすよ?」  言った山田を秋葉楓は数秒眺め、まぁいいでしょうと肩を竦めた。 「そうだ。今度食事でも行きませんか、一太郎さん」 「俺にも食べ物は与えないほうがいいっすよ、楓さん」  すると敵は小さく笑い、 「同居人さんによろしく」  そう言ってエントランスのほうへ歩き出した。その直後、ボスの後ろを行きかけた番犬がすれ違いざまに山田の手に何かを握らせた。  山田は彼らに背を向け、自宅に向かいながら手の中の紙切れを広げてみた。 「──」  某コンビニの中華まん百円引きクーポンだった。

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