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2.風波と偽りの凪(2)

「やぁ。今日はやけに早いね。小泉優駿君」  柏尾は常と同じ食えない笑みを浮かべ、僅かに口端を引き上げる。 「……あ、おはようございます」  それに一瞬、戸惑った風に間を置いて、優駿は自分よりも更に上背のある柏尾を見上げた。柏尾は笑みを深めて目礼を返し、視線を宰へと移す。 「これ、朝礼の時に渡せなかった分」  宰が顔を上げると、柏尾は持っていたクリアファイルを差し出した。中には、数枚のFAX用紙が挟まれている。受け取ったその表紙に目を落とし、宰は頷く。 「ああ、例の不具合の……」 「それで全部じゃないらしいから、後でまた裏覗いてみて。俺も手が空いてればまた持ってくるし」 「わかりました」  ファイルから視線を上げて、再び柏尾の顔を見る。しかし予想に反して柏尾が見ていたのは優駿の方で、つられるように宰もそちらに目を遣った。  優駿が、無言でじっと柏尾の顔を見据えていた。柏尾がその眼差しを真っ向から受け止めている。宰は僅かに眉を潜めた。 (何だよ、この微妙な空気……)  判断しかねていると、柏尾が先に口を開いた。 「まぁ、俺の用はこれだけだから。『美鳥』は君に返すよ」  柏尾は目の前の優駿に向け、飽くまでも笑顔でそう告げた。そして言うだけ言うと、あっさり踵を返してしまう。 (そういえば、さっき『宰』って呼びやがったな、チーフ……)  その背を見送る傍ら、今頃気付いて、宰は一層柏尾を訝しむ。「宰」なんて、プライベート以外では一切許していない呼び方だった。そもそも柏尾の方も弁えて、職場では「美鳥」としか呼んでいなかったはずなのに。 (何考えてんだ、一体……)  加えて、この様子だとその違和感に気付いたのは宰だけではないらしい。鈍いばかりかと思っていた優駿だが、案外そうでもないのだろうか。 (まぁ、どっちにしても……)  何だか面倒なことになりそうだ。  未だ不自然に黙り込んだままの優駿を横目に、宰は憮然と溜息をついた。  *  *  *    「洗濯機?」  聞き間違いで無いことを確認するよう、宰は同じ言葉を復唱する。いつもと同じカウンター端の席に座っていた優駿は、至極真面目な表情で頷いた。 「はい、なんか最近、変なブザーがよく鳴るんですよ。もう買い替え時なのかなって思って」 「……小泉さん。ここは携帯売り場ですよ」 「パソコンの調子も悪いんです。どうしたらいいですか」 「……わかりました。今担当者を呼びますから」  婉曲に言った所で通じないだろうことは解っていた。解っていたが、言わずにはいられなかった。  そもそも、何故わざわざ携帯コーナーに来て家電やパソコンの相談をしようとするのか?  いや、根底にある意図は解かる気もするのだが、だからと言ってそれを酌んでやるほど甘くもなれない。  宰はげんなりしながらもインカムで担当者に呼びかけた。間もなく姿を現したのは家電担当の男性スタッフ、瀬川だった。  宰は彼に優駿の身柄を引き渡し――正直な心境としては押し付けるに近いが――後のことはそっくり丸投げすることにした。 (つーか……なんで俺がいちいち小泉(あいつ)の面倒を……)  瀬川に連れられて目の前から遠ざかる背中が、途中何度も宰を振り返った。  「また後で寄りますから!」と、はしゃぐ子供のように笑顔を振り撒く優駿に、宰はスタッフの誰かが言っていた「柴犬みたい」と言う言葉を思い出す。  すっかり姿が見えなくなると、ようやく一息つけるとばかりに宰は胸を撫で下ろす。  何気なく視線を上向け、店内の高い位置にある明り取りの窓に目を遣ると、丁度昼休憩から戻ってきた薫がうんざりした風に声をかけてきた。 「よく降るわよね」  窓の外は分厚い雨雲に覆われていた。  時節は六月に入り、梅雨真っ只中である天候は本日もご機嫌斜めらしい。まだ昼下がりだと言うのに、既に夕刻と見紛うほど暗い曇天は、さながら太陽のような優駿の笑顔とは正反対だ。 「今日は一日雨らしいですね」  宰は頷き、静かに目を閉じた。瞼の裏に残る優駿の姿を、早く消してしまいたいように。

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