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2.風波と偽りの凪(3)
* * *
「コイ君のマンションって、すごいとこなんだってなぁ」
一部のスタッフの間で呼ばれている愛称を持ち出し、柏尾は唐突に優駿の話を振った。
「コイ……小泉、……さんの、マンション」
「そう」
「…へぇ……」
柏尾と共に、以前から時折立ち寄っていたバーのカウンターで、宰は気だるげに頬杖をついている。
宰は普段出先で――それも顔見知りと酒を飲むことは滅多にない。理由は酒癖に由来するもので、要はそれが原因で苦い思いをしたことが過去に何度もあるからだった。
柏尾の言葉を借りれば、宰は酩酊すると、『無警戒、無防備、所により甘え上戸』になる傾向があるらしい。
それでも酒好きが高じて、強引に誘われれば付き合ったりもしていたのだが、さすがに以前、密かに想っていた後輩にその悪癖が露呈して――しかもその所為で露骨に避けられるようになり、挙句着信拒否までされるようになって――からは自粛するようになった。
年下に苦手意識を持つようになったのもそれからだ。おまけにそれ以降は恋愛自体にも引き気味になった。
にもかかわらず、宰は柏尾の前では酒を飲む。
柏尾だけが例外扱いなのは、柏尾が既にその全てを知っていて、且つ、結果肌を重ねるに至っても、その態度を一切変えなかったからだ。
嫌悪されることもなく、恋愛を強いられることもない。ただ欲しい時だけ体温を共有する知人。それが宰にはとても楽な関係だった。
「この間パソコンの説明をさせるのに、佐々木に仕事振ったんだけどな、そしたら同じマンションの人だ! ってコイ君が」
「……へぇ。そうなんですか。……佐々木君と」
名前を口にすると、ぼんやりとした脳裏に辛うじて同僚の顔が浮かぶ。
「……初めて知りました」
酔いのせいか、ぽつりぽつりと続けながら、宰は手持ち無沙汰そうに目の前のカクテルグラスを指で小突く。時折滴る雫を爪先に掬い上げ、戯れに弾くその様は、おおよそ職場で見る宰の姿からは想像し難い。
「まぁ、正しくは佐々木の友人が、だったんだけどな。同じマンションだったのは。そこに時々立ち寄っていた佐々木を何度か見かけたことがあって、それで勘違いしていたらしい」
「……へぇ」
「まぁ、本当に同じやつもいたんだが」
「? ……そうなんですか?」
「あぁ、少し前に異動してきた篠原――あいつの方は、本当に同じマンションなんだと。もちろんコイ君とは部屋のグレードが違うらしいが」
柏尾は苦笑混じりに返すと、手近にあったガラスの灰皿を引き寄せ、ポケットから草臥れかけた煙草のパッケージを取り出した。手馴れた所作でそれを揺すり、浮かせた一本を口端で引き抜く。
「 ――で、なんでも、そのマンションってマンション自体に温泉やらジムやらが完備されてて、まぁ間取りは色々あるらしいが、中でもコイ君の部屋は角部屋で、無駄にメゾネットタイプの3LDKとかなんとか……」
(また煙草……)
その仕草を横目に思うが、やはり口には出さず、宰はただおざなりな相槌と共に自分のグラスを傾ける。
「……確かに、一人暮らしにしては無駄ですね」
「つーかその前にコイ君は学生だろ。……いやはや、金持ちってのは軽く想像を超えるね」
俺なんて2Kの安アパートで我慢してんのに。と、銜えていた煙草の穂先に火をともし、柏尾は僅かに肩を竦めた。
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