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♥2.風波と偽りの凪(4)

 *  *  *        記憶がなくなるほどは飲んでいない。  けれども、ホテルの一室に入るなり、自分からキスを強請るくらいには酔っていた。  ベッドの上で、強張っていた体が弛緩する。そっと口付けを解いた柏尾の手が、宰の放ったもので濡れていた。 (とっとと突っ込めばいいのに)  自分だけが気だるい余韻の中という状況に、宰はぼんやり思いながら伏せていた視線を上げる。  間接照明の灯りだけを頼りに柏尾の方を見ると、スキンのパッケージを咥えながら、 「ん?」  彼はいつもより少しだけ柔らかく目を細めた。  二人きりでいるとき――主にベッドの中で――だけ見ることのある表情だった。  宰は何となくばつが悪いような心地になり、それを誤魔化すようにも口を開いた。 「そう言えば……あの時、どうして下の名前で呼んだんですか」 「え」  柏尾は唇で挟んでいたスキンをぽろりと落とした。 「あー……。て言うか、このタイミングで聞くことかね、それって」  半眼気味の眼差しを向けられ、空笑い混じりに嘆息される。宰は柏尾から視線を外し、これまでにも何度か見上げた憶えのある天井を眺めた。 「このタイミングじゃないと、聞けない気がして……」  夜もそれなりに深くなり、バーを後にした二人が向かった先は、繁華街でも裏通りに位置するラブホテルだった。初めてではないその場所で、柏尾と体を重ねるのも既に何度目のことか分からない。  宰は額に張り付いていた髪を無気力そうに自分で払った。 「……お前はホント、俺をそう言う相手としか見てないよね」 「そんなの、今更でしょ……」 「まぁ、そうなんだけど」  柏尾は小さく肩を竦めると、シーツの上に転がっていたスキンを拾い上げ、わざとらしく宰の視界でそれをちらつかせた。 「でもねぇ、少なくとも俺は一応特別な相手だと思ってんのよ、お前のこと」  それから口を使って片手でパッケージを開ける。その即物的な態度に、どの口が言うのかと言いたくなるのを飲み込んで、 「物は言い様ですね」  すげなくそれだけを呟くと、柏尾は「そうかなぁ」と喉奥でくぐもった笑みをこぼした。

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