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5.苛立ちと躊躇い(8)

 廊下に出ると、すぐさま後ろ手に扉を閉めた。深呼吸するように深い息をつき、ややして俯きがちだった視線を少しだけ上げる。  そうしてエレベーターのある方へ歩き出した時、視界の端に人影が差した。 「あなた性格悪いですね」  それが誰であるかを認識するより先に、高く澄んだ声が耳に届く。宰は足を止め、顔を上げた。  間近の廊下の壁にもたれて立っていたのは麗華だった。その手の中には、見覚えのある花が美しく活けられた花瓶が抱えられている。 「優ちゃんの気持ちを知りながら、よくそんな言い方ができますよね」 「……」 「聞こえてますか? 私の声」  麗華は焦れたように壁から背を離した。目を合わせただけで、何も言わない宰の態度に憮然とした表情を隠さず、立ちはだかるように宰の正面に立った。  そして唐突に宣言する。 「私、優ちゃんと結婚しますから」  長いまつげに縁取られた黒目がちな瞳が、微塵も揺らぐことなく真っ直ぐに宰を捉えていた。 「知ってますよね。いとこは結婚できるんですよ」  あなたとは無理でも。  言われてないのに、そう言われた気がした。  迷いのない言葉に、意思の強さを湛えた眼差し。一度言い出したら聞かなそうなところといい、何だか既視感すら覚えそうなほどにそっくりだ。 「……いいんじゃないですか」  宰は緩慢に瞬くと、苦笑気味に笑った。  それからあえて接客するときのような笑顔を作り、 「お似合いだと思いますよ」  にこりと更に笑みを深めてそう言った。  麗華は僅かに目を瞠り、刹那、その頬を淡く染めた。  優駿とお似合いだと言われたのがそんなにうれしいのだろうか。そういう時、妙に素直な反応を見せるのところもやはり似ている。  いとこ同士と言うくらいだ。気心も知れているに違いない。先刻のやり取りからしても、二人が楽しそうに笑っている姿は容易に想像できる。  お似合いだと言ったのは本心からだった。  本心からだったが、 「優ちゃん、普段はちゃんと家のことも考えてるし……周りに言われたことに逆らうこともほとんどないんですけど」 (……なんでこんなイライラすんだよ) 「なのに最近は時々あるんですよね。突然、外でのバイトをしてみたいって言ってみたり」  麗華が優駿のことを話すたび、どういうわけか胸の奥に言い知れない苛立ちが募る。 『そんなにいけないことですか?』  外で働いてみたいと言うことが。  そのせいか、ついそこまで口出ししてしまいそうになり、それをどうにか心の中でやり過ごす。  宰は密やかに息を吐き、改めて笑みを張り付けた。 「私(部外者)が言うのも何ですが……」  そうして、軽く会釈をすると、 「家のことも大事でしょうけど、もう少し自分のことも考えさせてやってくださいね」  努めて柔らかい声で言いながら、麗華の脇をすり抜ける。  去り際に残した言葉は、宰が言うべきことではなかったかもしれない。  けれども、言って後悔はしていない。  宰はそのまま振り返ることなく廊下を進むと、当初の予定通りにエレベーターの方へと歩調を早めた。

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