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5.苛立ちと躊躇い(9)
* * *
エレベーターの前まで辿り着くと、その更に向こうから柏尾が歩いて来るのが見えた。
宰に気づいた柏尾は僅かに目を瞠り、急くように傍までやって来た。
「え、なに」
「先に降りてます」
宰はかぶせるように答えながら、壁のボタンを強く押した。
「や、じゃなくて」
「別に何もないです」
「いやいや、それはないでしょ」
呆れたように言われても、それ以上は何も答えられない。答えられないというより、答えようがないと言った方が正しいかもしれないが。
間もなく澄んだ音が響いて、目の前の扉が開く。幸い、そこには誰も乗っていなかった。
「挨拶はしましたから」
事務的にそう言い残し、宰はまっすぐ中へと乗り込む。
その間一度も柏尾を見ることなく、すぐさま階床ボタンに手を伸ばすと、扉の外に立ったままの柏尾が、聞こえよがしに溜め息を吐いた。
(なにを言えって言うんだよ)
宰も思わず嘆息する。
ここに来てからのことは、できればもう考えたくなかった。考えれば考えるだけ、苛立つばかりだからだ。
開閉ボタンに指を添える傍ら、いつの間にかぼやけていた視軸を瞬いて合わせる。そんな自分に舌打ちし、それから八つ当たりするように柏尾を一瞥した。
「――それなら、今夜話します」
「へ?」
「用事がなければ断る理由はないんでしょう」
最後は吐き捨てるように言って〝閉〟ボタンを押した。
本当は何も話すつもりなんてなかった。ただこんな気持ちを抱えて独りでいるのが嫌になっただけだ。このやり場のない焦燥を、どうにかして少しでも晴らしたくなった。
「まぁ確かに……断る理由はないんだけどね」
間を隔てるように閉まる扉の隙間から、柏尾が困ったように苦笑するのが見えた。
* * *
病院を出て、店へと戻る車の中、マイペースに煙草を取り出す柏尾の横で、宰はずっと黙り込んだままだった。
何も言わず、何も訊かず、ただ黙ってハンドルを握り、信号にかかればブレーキを踏む。その繰り返し。
気になることがないわけではないのだ。
入院の理由や、その容態、そしてその退院予定日が今日だったことなど、柏尾も本当に知らなかったのか否か。
それから、宰のいない部屋に柏尾が戻った時の、優駿や麗華の様子も――。
けれども、何となく自分からは言い出せなくて、聞いてどうするのだと思えば余計に声にならなくて、宰は密やかに溜め息をつくしかなかった。
そんな思い詰めたような宰とは裏腹に、柏尾は咥えた煙草に火を点けながら、のんきに口を開く。
「そう言えば、今日も来るって言ってたよ。コイ君」
「――は?」
目の前の赤信号と、その言葉の意味を認識するのが重なって、思わず急ブレーキを踏んだ。「おっと」とわざとらしくこぼした柏尾の顔を訝しげに見遣って、
「……もちろん断ったんですよね」
「まぁ、そりゃさすがにね」
あえて釘を刺すように問うと、柏尾は紫煙を細く吐き出してから、勿体つけるように笑った。
「それでも来るって言い張ってたけどな?」
「な……」
「いや、ちゃんと止めてたよ。いとこだっけ? あの付き添いの子がしっかりと」
「……そうですか」
「すごいな、あの子。可愛い顔して母親みたいだった。若いのにしっかりしてるよなぁ」
「……そうですね」
のらりくらりとあえて核心をかわすような、専ら宰の反応を面白がりたいだけのような柏尾の態度は、相変わらず宰の神経を逆撫でする。
にもかかわらず、一方ではそんなやりとりの末に肩の力が抜けていることも少なくはなく、正直胸中は複雑だった。
「一応、今日は無理でも明日からはまた会いに行きますって言ってたよ」
「そうですか」
「お前、それでちゃんと聞いてんの?」
「そうですね」
似たような返答しかしない宰に、柏尾が煙草を口端に咥えたまま小さく笑った。
宰は何度目かの溜め息をついた。
(――まぁ、別にあいつが誰と結婚しようと、俺には関係ねぇし)
信号が青になったのを機に、自分に言い聞かせるようにして思考を切り替えた。少しだけ冷静になった頭に優駿の笑顔が浮かんだが、それもすぐに振り払う。
(そもそも、住む世界が違うんだから)
常に〝家のこと〟がついて回るような優駿と、何の変哲もない、極めて平凡な一般家庭に育った自分では。
きっとこの先どこまで行っても、全てが平行線でしかないのは目に見えていた。
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