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番外編2『ある冬の日のこと。』(4)
そこからの記憶は曖昧だった。ただ頭の中で、あの唇が、あの声が、何度も「美鳥先輩」と繰り返すから、
(……早く消えろよ)
それをどうにか掻き消したくて、無意識にアルコールを求めてしまったんだと思う。そうして逃げ込んだ先が、数ヶ月前から時折行くようになっていたこの店だった。
つい先日、柏尾もその店の常連だと知ったばかりの路地裏のバーだ。
のちに柏尾と連れだって行くことになるその店のカウンターで、気がつけば宰は浴びるように酒を飲んでいた。
この店のカウンターは、独りで飲んでいると特に声をかけられやすい。声をかけられるだけでなく、同性にその後を誘われることも少なくない。要するに人待ちをしていると思われても仕方ないのだと途中で知ったけれど、知ってからも宰が他の場所に座ることはなかった。
「隣、いい?」
カウンターの端で頬杖をつき、すでに何杯目かわからないグラスを空にしたところで、不意に声をかけられた。横目に見遣ると、あまり見た覚えのない長身の男が立っていた。仕立てのいいスーツをさらりと着こなす、笑顔の優しい男だった。
しばらくは他愛もない話が続いた。そうして、宰のグラスがまた一つ空になった時、男は「場所を変えないか」と耳打ちしてきた。宰はその誘いに容易く乗った。自棄になっていた宰に断る理由はみつからなかった。
その日柏尾が来ているかどうかは知らなかった。知らなかったというか、そもそも興味がなかった。まぁ、仮に来ていたとして、向こうもずっと見て見ぬふりを続けているのだ。それならこっちも気にする必要はないだろう。下手に干渉しない方が楽なのはお互い様だ。
そう割り切っているからこそ、宰の振る舞いは何も変わらなかった。柏尾が同じ店の常連であると知る前も、知ってからも、宰はその時の気分のままに誘いを断り、誘いに乗る。
なのにその日に限って、そこに割って入られた。
「ちょっと待って」
背後からかけられた声に振り返ると、今度は腕を掴まれた。そのまま力強く引き寄せられて、思わず息を呑んだ。
酩酊しているせいか、やけに状況の把握に手間取った。気がつくと、場に似つかわしくないスウェットの生地が頬に触れていた。胸元には見覚えのあるロゴの刺繍があった。
(……何でこいつが……)
「行っちゃだめですよ、美鳥さん」
妙な違和感を覚えながら眩しげに見上げると、抱きしめる腕にいっそう力をこめられた。
「――俺がいます」
視線の先で、言い聞かせるようにそう囁いたのは、現在(いま)と変わらない姿の優駿だった。
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