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番外編2『ある冬の日のこと。』(5)
* * *
「美鳥さん――」
どこかで今一度名を呼ばれた気がして、宰はゆっくり目を開けた。
いつのまにか、辺りはすっかり暗くなっていた。部屋の中はシンと静まり返り、キッチンにも明かりは灯っていない。
「夢……」
ややしてぽつりと呟き、見覚えのある室内を茫洋と見渡した。
(ていうか、本当ならあそこで口を挟んできたのは……)
思いながら一旦視線を伏せると、緩慢に上体を起こす。そこで布団がひっかかるような感覚がして、宰は再び目を開けた。
「……優……」
優駿が、宰の眠るベッドに顔だけ伏せる格好で寝息をたてていた。床に直接座り込み、頬杖が崩れたような体勢で、片手には宰の汗でも拭っていたのか、見るからに高級そうなタオルが握られている。
「――…」
宰はそっと手を伸ばし、以前ほどまめにカットされておらず、幾分長くなった優駿の髪に触れた。すぐに起きそうな気配がないのを確認してから、そのまま柔らかく頭を撫でる。
(よくここまでできるよな、お前……。お前が寝込んでも、多分俺はそこまでできねぇよ)
例えばあのいとこなら――麗華なら、きっと難なくやってしまうのだろうが。
(ほんとにこんな俺でいいのかよ、お前――…)
心の中で独りごちると、優駿が僅かに身じろいだ。宰は触れていた手を退いた。
「ん……美鳥、さん……起きたんですか……?」
優駿は頭を擡げ、目をこする。宰の顔に焦点を合わせ、ぱちぱちと瞬きを重ねた。
「体調、どうですか……?」
「まぁ、さっきよりは」
苦笑気味に答えると、暗がりのせいか身を乗り出して、「本当ですか?」と顔を覗き込まれる。宰が逃げないでいると、その距離は一気に近くなった。
優駿は、まるで母親が子供にするみたいに、額をコツンと触れ合わせてきた。
宰は小さく瞬いた。胸の奥に、懐かしいような照れくさいような擽ったさが込み上げる。同時に優駿も幼い頃はそうされて育ったのだと思うと、少しホッとしたりもした。
「……」
宰を気遣ってか、緊張しているのか、息を詰める優駿は未だどこか初々しい。宰はおかしげに笑いを堪えると、不意打ちで間近の唇に掠めるようなキスをした。
「み、美鳥さん……?」
口付けは束の間で、瞠目する優駿を見詰めながら、ぺろりと自分の唇を舐める。
「美鳥じゃねぇだろ。外ではともかく、二人きりのときくらい名前で呼べよ」
固まったまま動けないでいる優駿から視線を外さず、
「ていうか……もとはといえばお前がとっとと帰らねぇのが悪ぃんだからな」
囁きながら改めて間合いを詰めていく。
「え、でもっ、だって体調……っ」
「もういい。せっかくだしお前にうつして治す」
「そ、んなっ……」
いつも以上に戸惑う優駿の顔に、戯れに息を吹きかける。そのくせ、優駿が反射的に上体を反らすと、あっさり身を退いた。
「嫌なら帰れよ」
挙句、あえて冷めた風に視線を逸らし、すげなく言い渡す。優駿は慌てて首を振った。
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