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番外編3『ある春の日のこと。』(5)

   *  *  *     旅行当日――。  三時間強の所要時間を経て、辿り着いた先は古めかしくも手入れの行き届いた老舗の和風旅館だった。  小高い丘の上にあるそこは、背面を森に囲まれ、前面に海、という絶景の中にあり、庭から直接下りられるプライベートビーチは外海のわりに波が穏やかで、夏にはそれを目当てに訪れる家族連れも少なくないとのことだった。  とは言え、ここはいわゆる高級旅館。利用するにはそれなりの費用かかかるため、容易く誰もが来られる場所でもない。  なのに今夜宰たちはここに泊まることになっている。プライベートでもなかなか候補にすらあがらないだろうこの場所に、単なる会社の社員旅行で。  予算内で収まらないことは誰の目にも明らかなのに――それは例え今回のように、予算に幾らかのボーナスが付いたからといって変わるようなものでもないのに。  今回の計画を立てたのは店長だった。ということは、足りない分の補填は店長自らが――? と、思う暇もなく、その答えはすぐに視界に飛び込んできた。 「いらっしゃいませ!」  それぞれの荷物を肩に、バスを下りてきた一行を、聞き慣れた声が元気に出迎える。明るい猫っ毛を無造作に立たせて、にこにこと愛想を振りまく男が、これでもかと言うくらい大きく手を振っていた。  その少し後ろで、上品に頭を下げていた女性がゆっくりと顔を上げる。柔らかく微笑んだその面持ちは、どこか見覚えがあるような気がした。 (嘘、だろ……) 「コイくんも一緒だなんて、楽しくなりそうね」  認めたくない事実を、すぐ横であっさり薫が口にする。  未だに呆然と立ち尽くす宰の視線の先――フロント前に立つ和服の女性の隣に並んでいたのは、紛う事なき優駿だった。 「もう気付いた方もいらっしゃるかもしれませんが、ここは小泉君の親戚の方が営まれている旅館です」 「優駿がいつもお世話になっております。伯母の春名優子と申します」 「色々サービスしてくれるそうなので、みなさん楽しんで行ってくださいね」  一通りの手続きを済ませた後、改めて一同に向き直った店長は、女将と優駿を交えて説明を始めた。その一連の会話から、すっかり謎が解けたとばかりの面々は、「通りで似てると思った」、「給料引きは免れた」と素直に盛り上がっていた。 (……帰りたい)  ただし、宰だけは当然納得がいかない。  かと言って本当にここで帰るわけにもいかず、肩にかけた荷物を握る手に力を込めながら、せめてもと優駿から目を逸らした。 (マジ帰りたい)  叶わないと分かっていても、思わずにはいられない。 (いきなりアイツの親戚とか、冗談じゃねぇよ)  それでも努めて平静を装い、割り振られた部屋へと歩き出したところだった。 「美鳥さん!」  不意に名を呼ばれ、宰は反射的に足を止める。  しまったと後悔しても後の祭りで、仕方なく振り返ると、そこには声の主である優駿と共に、優しく微笑む優子が立っていた。

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