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番外編3『ある春の日のこと。』(9)

「美鳥さんが浴衣着てるの、初めて見ました」 「……だからなんだよ」 「いえ、似合ってていいなぁって。素敵です、とっても」  二杯目のグラスに口をつけ、それを半分ほど空けてから、優駿はよりうっとりとした笑みを浮かべる。そのあまりに幸せそうな表情に、迂闊にも宰の目端までじわりと熱くなった。  ――けれども、それと同じくして、やはりこのままではだめだという気持ちも強くなる。 「そういや美鳥、風呂まだだって言ってたよな」 「え、じゃあ、俺、案内します」 「案内っていうか、せっかくだし、後で一緒に入って来たら」  そんな胸中を知って知らずか、柏尾が不意にそんな提案をする。 (だから、今はそんな気分じゃ……)  宰の手に、思わずぎり、と箸が軋むほどの力がこもる。  しかし、すぐにこれもちょうどいい機会かもしれないと思い直した。 「……今がいい」 「え?」 「いいから来い、今すぐ」  宰は箸置きに箸を戻すと、おもむろに立ち上がった。  一杯だけとは言え一気飲みしたビールのせいか、足下が軽くふらついた。それでも、驚いたように見上げる優駿と柏尾、そして薫の視線を無視して、さっさと踵を返す。  後はとりつくしまもなく歩き出し、会場を後にした。 「まっ……待ってください、美鳥さん!」  後を追ってきた優駿が、廊下の途中で宰の腕を掴む。 「今からって……ホントに今から、一緒に温泉……?」 「じゃねぇよ」  さすがに様子が可笑しいと察したのか、自信なさそうに言う優駿に、宰は短く吐き捨てる。続けざま、「そ、そうですよね」とどこかほっとしたように返す優駿を少しだけ振り返り、「お前の部屋は」と端的に尋ねた。 「あ、こっちです」  優駿は慌てて宰たちの部屋とは全く別の方向を指さした。その先を見遣り、宰は静かに告げた。 「……少し話がある」 「あ……じゃあ、案内します」  戸惑いながらも頷いた優駿が、掴んでいた宰の手を引き、歩き出そうとする。その時、廊下の奥に人の気配を感じた気がして、宰は咄嗟に優駿から一歩退いた。当然のように、掴まれていた手も振り解く。  優駿が驚いたように宰の顔を見た。間もなく姿を現したのは、到着した際、部屋の案内をしてくれた仲居の一人だった。彼女は宰たちに気づくと、にっこりと微笑み、丁寧に頭を下げた。宰たちが通り過ぎると、彼女もそのまま歩いて行く。  特に何を勘付かれるでもなく、無事やり過ごせたようだと安堵する宰に、優駿はどこか複雑そう表情を浮かべたが、 「ここです」  結局何も言おうとはせず、やがて辿り着いた『桜月』という部屋の引き戸を開けただけだった。

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