79 / 93
番外編3『ある春の日のこと。』(9)
「美鳥さんが浴衣着てるの、初めて見ました」
「……だからなんだよ」
「いえ、似合ってていいなぁって。素敵です、とっても」
二杯目のグラスに口をつけ、それを半分ほど空けてから、優駿はよりうっとりとした笑みを浮かべる。そのあまりに幸せそうな表情に、迂闊にも宰の目端までじわりと熱くなった。
――けれども、それと同じくして、やはりこのままではだめだという気持ちも強くなる。
「そういや美鳥、風呂まだだって言ってたよな」
「え、じゃあ、俺、案内します」
「案内っていうか、せっかくだし、後で一緒に入って来たら」
そんな胸中を知って知らずか、柏尾が不意にそんな提案をする。
(だから、今はそんな気分じゃ……)
宰の手に、思わずぎり、と箸が軋むほどの力がこもる。
しかし、すぐにこれもちょうどいい機会かもしれないと思い直した。
「……今がいい」
「え?」
「いいから来い、今すぐ」
宰は箸置きに箸を戻すと、おもむろに立ち上がった。
一杯だけとは言え一気飲みしたビールのせいか、足下が軽くふらついた。それでも、驚いたように見上げる優駿と柏尾、そして薫の視線を無視して、さっさと踵を返す。
後はとりつくしまもなく歩き出し、会場を後にした。
「まっ……待ってください、美鳥さん!」
後を追ってきた優駿が、廊下の途中で宰の腕を掴む。
「今からって……ホントに今から、一緒に温泉……?」
「じゃねぇよ」
さすがに様子が可笑しいと察したのか、自信なさそうに言う優駿に、宰は短く吐き捨てる。続けざま、「そ、そうですよね」とどこかほっとしたように返す優駿を少しだけ振り返り、「お前の部屋は」と端的に尋ねた。
「あ、こっちです」
優駿は慌てて宰たちの部屋とは全く別の方向を指さした。その先を見遣り、宰は静かに告げた。
「……少し話がある」
「あ……じゃあ、案内します」
戸惑いながらも頷いた優駿が、掴んでいた宰の手を引き、歩き出そうとする。その時、廊下の奥に人の気配を感じた気がして、宰は咄嗟に優駿から一歩退いた。当然のように、掴まれていた手も振り解く。
優駿が驚いたように宰の顔を見た。間もなく姿を現したのは、到着した際、部屋の案内をしてくれた仲居の一人だった。彼女は宰たちに気づくと、にっこりと微笑み、丁寧に頭を下げた。宰たちが通り過ぎると、彼女もそのまま歩いて行く。
特に何を勘付かれるでもなく、無事やり過ごせたようだと安堵する宰に、優駿はどこか複雑そう表情を浮かべたが、
「ここです」
結局何も言おうとはせず、やがて辿り着いた『桜月』という部屋の引き戸を開けただけだった。
ともだちにシェアしよう!