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番外編3『ある春の日のこと。』(10)

 優駿が借りていた部屋は、俗に言うロイヤルスイートルーム級の貴賓室だった。調度品といい、窓から望める景色といい、他の客室と違って部屋数も多く、専用露天風呂まで完備されているという、プライベートで泊まりに来ていたとしても、一介のサラリーマンである宰にはまず縁がないだろう空間だ。  半ば無意識に窓際へと歩き、窓外の景色をじっと眺める。時折、どこからか風に乗ってピンク色の花びらが舞い落ちてくるのが見えた。山の中に、遅咲きの桜でも咲いているのかもしれない。  宰は小さく息を吐いた。 (これが……こいつにとっては普通、なんだよな)  いつも自分が見ている景色とはあまりにかけ離れていて、ここは夢の中なのではないかと錯覚しそうになる。けれども、優駿にしてみればこれも大したことではないのだろう。  そう思うと、またしても現実を突きつけられた感じがして、ひどく居た堪れない気分になった。 「あの、話って……」  言葉をなくして佇む宰に、おずおずと声がかけられる。横目に視線だけ転じると、思ったよりも近い位置に優駿が立っていた。 「………」  話がある――。そう言ったのは自分なのに、いざその時になると、何から話していいか判断に迷う。  何度か口を開きかけ、そのたび言葉を飲み込んで、とにかく冷静になろうと努力する。  そうして最初に口にしたのは、 「お前、今回のこと、なんで黙ってた」 「あ……すみません。その、俺も今日、本当に来られるかどうかギリギリまで分からなくて……」 「ここがお前の親戚の経営してる旅館だってことは?」 「それは、店長さんが自分から伝えるからって」 (店長……)  と言うことは、やはり店長は意図的に伏せていたのだろうか。優駿にわざわざ口止めしてまで……?  にこにこと楽しそうに、旅館や優駿を紹介していた店長の姿を思い返し、宰は胡乱げに目を細めた。 「……美鳥さん?」  急に黙り込んでしまったからか、窺うように名を呼ばれ、宰は瞬いて焦点を合わせた。軽く頭を振って気を取り直し、どうにか次の言葉を探し出す。 「えっと……じゃあ……」 「はい」 「旅館に着いたとき……、お前、どう言うつもりでああいうことを言った?」  いつのまにか外れていた視線を優駿に戻し、努めて平板な声で言う。 「ああいうこと……ですか?」 「わざわざお前の親戚……優子さんに言ったことだよ」  内容が内容なだけに、しつこく説明するのは気が進まなかったが、まるで何のことか分からないと首を傾げる優駿に、仕方なく言葉を継いた。 「俺のことを……何て言って紹介したか覚えてねぇのか」 「あ、大切な人ですって言ったことですか? ――そっか、説明足りてなかったですよね。もっとちゃんと、お付き合いしてる人だってはっきり……」 「違……っだから、そうじゃねぇだろ!」  気がつくと、宰は声を荒げていた。優駿から返ってきた答えは、驚くほど見当違いな答えだった。  信じられない。何て危なっかしいんだと本気で心配になる。  本当にコイツは、自分の立場が分かっているのだろうか。日本でも有数の資産家の家に育ち、いつかは自分もそれを背負って立つべき存在だと、そのことを本当に理解しているのだろうか。  考えれば考えるほど、背筋が冷えるような心地がする。

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