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初めてのお仕事 1
受付のあるフロアでエレベーターを降りると、そこは一見してただのオフィスビルのようだった。
ゆったりとした品のいい音楽が静かに流れているだけで、看板も案内板も何もない。
浩一 はエレベーターホールの突き当たりを左に進む。観葉植物の並んだ奥に、ホテルの受付のような佇まいのカウンターがあった。
「こんにちは」
浩一が挨拶をすると、カウンターの向こうの白髪混じりの男が、こんにちは、と返してくれた。
浩一は財布から免許証を出して男に差し出す。お預かりします、と言って、男は免許証の記載を見ながらパソコンを叩いた。
「ありがとうございます。こちらお返しいたします」
「うん。フラッと来ちゃったんだけど、今誰かいる?」
男はタブレット端末を取り出して操作し、浩一の前に差し出した。
「こちらでしたら、すぐご案内できるかと存じます」
浩一は画面を覗き込む。見覚えのある顔と、見覚えのない顔とが並んでいた。
「あれ、新しい子いるんだ」
新人マークのついた写真があった。タップすると、可愛らしく爽やかな青年が青空を背景に笑っていた。
「彼は今日が初日ですので、何かと不慣れな点があるかもしれませんが」
「えっ、今日から?」
「はい。明るくて素直な、いい子ですよ」
それは写真の印象そのままの言葉だった。興味を引かれて、浩一は笑う。
「じゃあ、彼でお願いします」
「紘弥 さんですね。かしこまりました」
男に促されて、廊下を進んだ奥の椅子に腰を下ろした。本当になんとなく、漠然とした楽しみを期待して来たものの、紘弥という彼の写真を見て、その期待は何故だか急にそれ自体が楽しいものに変わっていた。
あの笑顔の青年に会ってみたい。どんなふうに話して、どんな声で笑うのか。
そんな素朴な期待が胸を占めた。
しばらく待つと、軽い足音が聞こえてきたので、浩一は顔を上げた。すらりとした身体の青年が、少し焦ったような様子でこちらに来るのが見えたので、微笑んで立ち上がる。
「あ、あの、お待たせしました。紘弥です。よろしくお願いします」
仕立ての良い黒のパンツに、紺の生地に黒や紫の糸で繊細な刺繍が施されたシャツがよく似合っていた。茶色の髪がさらさらと揺れて清潔感があったし、何より目がぱっちりとして可愛らしく、表情の明るいのが好印象だった。
「うん、紘弥くん、よろしく」
笑って言うと、嬉しそうに目を細くして、はい、と返事をするのが愛らしかった。
「じゃあ、あの、お部屋ご案内します」
不慣れな様子が伝わってきたが、それよりも一生懸命なのが微笑ましく、浩一は紘弥の隣について歩く。
「あの……何て呼んだらいいですか?」
照明の淡い廊下を歩きながら、紘弥が浩一を見上げてきた。頭半分ほどの身長差だろうか。
「浩一でいいよ」
キャストには客の身分もフルネームも伝わっているはずだったが、躊躇いがちに訊いてきた声がいかにも緊張していて、優しくしてやりたい気持ちが自然と浩一を笑顔にさせた。
「じゃあ……浩一さん。あ、お部屋ここです」
紘弥が扉を開けた向こうには、カーテンのかかった広い窓とソファセット、そして大きなベッドがあった。
「ありがとう」
笑いかけて部屋に入る。荷物を置き、上着を脱ごうとすると、紘弥が上着を受け取って、壁際のハンガーに掛けてくれた。
「紘弥くん、今日が初日なんだってね」
言うと、紘弥は照れくさそうな笑みを浮かべた。
「はい。だから全然慣れてなくて……ごめんなさい」
「全然」
笑顔を向けると、はにかんでみせるのが可愛くて、浩一はつい顔が緩んでしまう。それを誤魔化すように話題を変えた。
「何か飲む? 紘弥くんはお酒だめかな?」
部屋にはガラス扉の冷蔵庫があって、中に色とりどりの瓶が並んでいた。横の棚には磨かれたグラスが美しく光を弾いている。
「あ、えっと、だめじゃないんですけど、弱くって……」
「そっか、甘いのは?」
「好きです」
「じゃあ、……あ、これ飲んだことある?」
浩一は冷蔵庫の中から外国語のラベルの瓶を出した。紘弥は横のバーカウンターに肘をついて覗き込んでくる。
「これ、前に知り合いのパーティーで飲ませてもらったんだけど、すごく美味しかったんだよ。言っちゃうとただの炭酸入りのりんごジュースなんだけど」
言いながら浩一はグラスを取って、紘弥の前で注いでやる。促すと紘弥は緊張した手つきでグラスを口に運び、そして目を丸くした。
「えっ、……えっこれ、すごい、わあ、すごい美味しいですね!」
驚きを素直に表すのが可愛くて、浩一は満面の笑みを浮かべた。
「な。俺もびっくりしたもん。ほんとに果汁だけらしいよ」
「えーすごいです! 知らなかった……ありがとうございます」
そう言う顔が本当に嬉しそうに見えて、浩一は胸が温かくなる。慣れてなどいなくても、彼はこのままで充分魅力的だった。
ここは言うなれば高級風俗店で、紘弥は客を接待する──つまり客と性行為をする従業員なわけだが、彼の持つ雰囲気には若々しく健全な人懐こさがあった。
浩一は純粋に、この子と時間を過ごすだけで楽しいだろうな、と思う。実際、早く行為に及びたいと急く気持ちはまったく湧いてこなかった。
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