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名前がなくても愛してる 1

 浩一(こういち)は悩まされていた。  仕事は忙しく、考えることがいくらでもある毎日の中で、ふと気が付くと脳裏に綺麗な青年の笑顔が浮かび、休憩でも取ろうものなら、今頃彼は何をしているのだろうと考える自分があった。  ともに過ごしたほんの数時間の間に、何度名を呼んでくれただろう。浩一さん、と、耳に好い声が呼んでくれた幸せは、いくら反芻しても飽きることがなかった。  表に名の出ることのない店で出会った彼は、言うなれば男娼だった。その笑顔も、言葉も、仕草も全部仕事のそれであると了解していたつもりだったし、それでいいと思っていた。  彼の仕事ぶりは素晴らしくて、支払った金銭以上の満足を浩一は得て、それほどに自分を満たしてくれた彼に感謝していたのは本当だ。  ──でも、これは想定外だったなあ……。  忙しい生活に戻っても、浩一は彼のことが忘れられなかった。今何をしているだろうか、仕事はうまくいっているだろうか、意地の悪い客に悩まされてはいないだろうかと、無為なことを考えるのをやめられなかった。  そしてこういう己の状態を、恋と呼ぶことを浩一は重々承知していた。  擬似的な恋人を演じてくれる相手に本気になってしまう男を、気持ちはわからなくもないが気の毒なやつだと思っていたのに、まさか自分が当事者になってしまうとは。  ──こんなの、絶対あの子は喜ばないよな……。  恋が一過性の病気のようなものであることはわかっていたし、浩一にとって重大だったのは、自分の感情そのものよりも、あの美しい青年を困らせるような想いを自分が抱いているという現状だった。  彼の仕事の励みになれるような、いいお客さんでいたかったし、そうであれる心の距離を保っていたかった。それなのにこれでは、彼に遠ざけられても文句は言えない、と思う。  それでも、一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、浩一の病は改善の兆しを見せなかった。とうとう浩一は腹をくくって、スケジュール帳と睨み合いながら、店に電話をした。 『ご予約ですか?』  聞き覚えのある落ち着いた男性の声に、浩一は言う。 「はい、紘弥(ひろや)くんをお願いしたいんですが」 『ご希望の日時をお聞かせ願えますか?』  浩一は何とか捻出した候補の日時をいくつか挙げる。すると相手はすぐにこう言った。 『そのお日にちでしたら、いずれでもお取りいただけます』  浩一は予想外の返事に一瞬戸惑い、そして直近の日程で予約を入れた。 『かしこまりました。それではお待ち申し上げております』  電話を切ってからも釈然としない思いで、しかしまた彼に会えるという高揚もあり、浩一は己の心の置き場の定まらないことに悩みながらも、再び仕事に戻るほかなかった。  当日はむやみに緊張して、何度も鏡を見たり時計を見たりして落ち着かなかった。  期待と不安のどちらが大きいのか自分でもわからなくなって、だから紘弥が笑顔で迎えてくれたとき、浩一はひどく安堵したのだった。 「浩一さん、本当にまた来てくれてありがとうございます」  紘弥は目を細めて笑いながら、浩一の手を握って言った。その手の温かさと、笑顔の明るさに救われる思いで、そしてやはり彼のことが大好きで仕方がないと思った。  部屋に入ると、浩一はまず紘弥をソファに座らせて、大きく息をつき、言った。 「紘弥くん……君に聞いてほしいことがあるんだ」  紘弥は目をぱちぱちとさせて、状況がよく飲み込めない顔をしながら、はい、と言った。 「2分……いや1分でいいから、何も言わないで聞いてほしい。……いい?」  紘弥は頷く。願わくばこの顔が曇らなければいいと思いながら、浩一は覚悟を決めた。 「君のことが好きだ」  紘弥は何も言わなかったが、色の薄い目がいくらか丸くなった。 「こんなこと言っても君を困らせるだけだってわかってるし、自分でも馬鹿だなって思ってる。それにこの気持ちは俺の問題だから、付き合ってほしいなんて言わないし、その、迷惑かけるようなことはしないよ。だから……その、できれば君にはこれからも、一人のお客さんとして接してほしいと思ってるんだけど……」  どうかな、と問いかけた声は、自分でも情けなくなるほどに弱かった。  静かな部屋の中で、自分の心臓だけがうるさくて、それが紘弥にも聞こえているのではないかと思えて怖かった。腹を決めたつもりでいたけれど、彼の反応がどうであるのかもやはり不安でたまらなかった。  紘弥は驚いた顔をして浩一を見ていたが、やがて彼が以前にもよくしていたような、はにかみを含んだ笑みを見せた。 「……嬉しいです」  え、と浩一は無意識に声を漏らした。  紘弥は気恥ずかしそうに少し下を向いた後、再び浩一を見て言った。 「浩一さん……すごくおれのこと考えて言ってくれたんだなって思って……。なんでおれなんかにそんな気持ちになってくれたのかは正直よくわかんないんですけど、でも、……また会いに来てくれるってことでいいんですよね?」 「も、もちろん」  浩一が慌てて肯定すると、紘弥は安心したようにやわらかく笑った。 「じゃあ、あの、おれの方こそ、よろしくお願いします。浩一さんに幻滅されないようにがんばるんで、おれのこと……お客さんとしてでも、好きでいてくれたら嬉しいです」

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