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名前がなくても愛してる 3
すでにセックスすらした関係だというのに、好きだと思ってしまうと一緒に風呂に入るのも気恥ずかしくて、これはなかなか難しいものだな、と、湯船に浸かりながら浩一は考えた。
愛しい青年は同じ湯の中で、浮いた花びらをすくって遊んでいたが、浩一の視線に気付くと振り向いて言った。
「……浩一さん、今日も仕事だったんですよね?」
「え? ああ、うん」
「お疲れ様です。……おれにしてほしいことがあったら、遠慮しないで言ってくださいね」
笑顔も言葉もあまりにも甘やかで、浩一はどんな顔をすればいいのかわからなくなる。どうしようもないな、と思いながら、そっと紘弥の頬に触れた。
「……正直、本物の君がいるだけでいっぱいいっぱいなんだよね」
紘弥は目を丸くし、そして眉を下げて笑った。
「浩一さん、初めて会ったときから欲がなさすぎですよ」
「そんなことないよ。君を独り占めしてるんだから、こんな贅沢なこと他にないよ?」
紘弥は笑ったまま小さな息をついてみせて、浩一の肩に手を添えると、内緒話でもするように言った。
「……おれ、今は浩一さんだけのおれですから、恋人だと思ってくれていいんですよ」
浩一は紘弥の目を見て、息を飲む。一瞬何も考えられなくて、紘弥以外の何も見えなくなったような気がした。
「……ていうか、そしたら、おれが嬉しいです。浩一さんの恋人、なってみたいですもん」
あどけないような笑みとともに紘弥はそう言ったが、浩一はとても冗談にできるような返しはできなくて、紘弥の肩に顔を伏せた。
「…………それ以上言われたら俺絶対のぼせるから、そろそろ上がろっか」
かろうじてそう言うと、紘弥も少し赤くなって、はい、と言ったのがまたたまらなく可愛かった。
身体が熱いのは湯のせいなのか自分のせいなのかわからないまま、冷たい水を飲み干して浩一は息をつく。
もういい年だと思っていたのに、恋をした相手と二人きりで親密な距離を持つことは、まるで思春期のような不安定さを浩一の心に蘇らせていた。
一方の紘弥は、見る限り──今の浩一の目はまったくあてにならないことを承知した上で──浩一のそばにいることを純粋に楽しんでいるように思われたし、以前ほどの緊張も感じられなかった。
今もベッドの上で枕を抱いて横になって、微笑みながら浩一を眺めている。
しかし彼がまとっているのは薄い布一枚で、それは簡単に剥ぐことができ、その下は下着も身に着けぬ裸体であることを浩一は知っていた。愛しい青年がそんな姿でベッドの上に身を投げ出している光景は、正直に言えば目の毒だった。
「紘弥くん……」
浩一はベッドの端に腰掛けて、紘弥を呼ぶ。紘弥ははいと言って身を起こした。
「……たぶんバレてるだろうし白状するんだけど、前回の比じゃなく、めちゃめちゃ緊張しています」
紘弥は目をぱちぱちと瞬き、そして浩一のそばまでにじり寄ってきた。
「……おれは浩一さんがここにいてくれたら、なんでもいいですよ」
浩一は紘弥を見返し、その綺麗な明るい瞳が真っ直ぐに自分を見ているのを認めて、訊いた。
「……どういう意味?」
「浩一さんは、おれに優しくしようとか、いっぱい気を遣ってくれますけど……。緊張してたり、疲れてたりするときは、おれのそばにいてくれるだけで嬉しいから、あんまり考え過ぎないでください」
そう言って微笑んだ紘弥は本当に綺麗で、浩一は何だか泣きたくなってしまった。彼のためには彼に恋なんかしたくなかったと思ったけれど、こうして彼を見ていると、恋に落ちるほかなかったのではないかとすら思われた。
「君はほんと…………素敵すぎて、困るな……」
格好をつけた台詞も出てこなくて、ただ本音を口にすると、紘弥は苦笑した。
「おれをそんなに特別扱いするの、浩一さんぐらいですよ?」
そんなの、と言いかけて、浩一ははたと思い出す。
「そうだ、紘弥くん、いっこ訊いていい?」
「はい?」
「あれからさ、俺以外にもちゃんとリピーターのお客さんついてるよね?」
紘弥は予想外の問いかけをされたという顔をして、丸い目をして浩一を見返した後、たどたどしく言った。
「それは……はい、あの、何人か……」
「だよね? よかった、俺不安になっちゃったよ」
「な、何がですか?」
「今回予約取るときにさ、希望の日をいくつか伝えたら、スタッフの人に、いつでもいいですよって言われちゃってさ。紘弥くん指名ついてないのかなって心配になっちゃった」
浩一は照れくさくなって笑ったが、紘弥は目を丸くしてしばらく浩一を見つめた後、くすくすと笑い声を漏らした。
「え、なに? 俺そんなに変なこと言った?」
「いえ、あの……変じゃないんですけど……浩一さん、おれの仕事、ほんとに応援してくれてるんだなって」
「そりゃするよぉ。君の頑張りや魅力がちゃんと評価されてほしいもの」
紘弥は切ないものを噛み締めるような目をして、浩一を見た。感情のこもった熱のある瞳に、浩一はどきりとする。
「……おれの仕事、他の男の人とセックスしたりすることだから、……浩一さん、そういうのイヤなんじゃないかなって思ったりしたんですけど……」
紘弥は少し言葉を切って、浩一の手に自分のそれを重ねてきた。
「浩一さんが応援してくれるの……すっごく心強いです。……ありがとうございます」
今日何度目のありがとうだろう、と思いながら、紘弥の声が真剣なそれだったので、浩一はたまらなくなって両腕で温かい身体を抱き締めた。
「応援してるよ。……だって俺、君にすごく助けられたもの。君はあんまり自覚がないかもしれないけど、君の笑顔も優しさも、人を救う力があるよ」
艶のある明るい髪に口づけて、浩一は言う。
「君が嫌々身体を売ってたら、俺だって嫌だけど、そうじゃないだろ? 君と抱き合って満たされる人、絶対に俺だけじゃないよ。君みたいに素敵な子、他に知らないから、もっと自分にも仕事にも、自信持ってよ」
紘弥の手が浩一の背中に回されて、ぎゅうと力をこめて抱き返された。それがとても心地よくて、浩一は目を閉じる。
腕の中からまた、ありがとうございます、と、紘弥の密やかな声が聞こえた。
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