事務所を出ると外はすっかり夜の空気で、風は少しばかり冷たくて空には星を見つけることができた。 　遅くなってしまったなぁと思いながら、浩一はスマホを操作する。発信をタップして耳に当てた。 『──はいっ』 　三度目のコールで聞こえた返事の勢いに浩一は笑う。まるで電話に飛びついてきたかのようだった。 「こんばんは、ごめんね、こんなに遅くなって」 『いえ、そんな、今お仕事終わったんですか？』 「うん、これからご飯食べて帰るところ」 『……お疲れ様です、浩一さん』 　沁みるような声だった。それを聞いて浩一は、一日頑張った甲斐があったな、と思う。 「紘弥くんは？　何してたの？」 『もう寝る支度済ましちゃったんで、浩一さんの電話待ってました』 「ええ？　うそ、ごめんね、だいぶ待った？」 　焦って言うと、電話口からくすくすと耳をくすぐるような笑い声がした。 『おれが電話くださいって言ったんだから、浩一さんが謝らなくていいですよ』 「えー、でも、やっぱりなんか悪いよ」 『……お仕事大変で、疲れてるのに、電話してくれたんだから、おれ、嬉しいです』 　噛んで含めるようにそう言った声の優しさに、浩一は目を細める。そしてその優しさに素直に甘えることにした。 「そっか……。でも君の声聞いたら、疲れたのなんか忘れちゃったよ。これから出勤って言われても全然がんばれそう」 　ええ、と驚いたような声がして、紘弥の目を丸くする表情が目に浮かぶようだった。 『だめですよ、ちゃんと食べて、ちゃんと寝てくださいね？』 　その生真面目な物言いに、いい子だなぁと思って浩一は笑う。 「うん、……正直な話、ほんとに疲れてるときはさ、食べるのも帰るのも面倒でその辺で寝ちゃいたくなったりするんだけど、今日はちゃんとしたもの食べて、ちゃんとベッドで寝るよ」 『……そうしてください』 　その声に笑った気配があって、浩一はそれだけで嬉しくなる。ちょうど差しかかった信号が赤になって立ち止まった。大型トラックが横切っていくのを眺めながら、赤信号の分だけ彼と話していられることがラッキーだと幼いことを考えた。 「君の声が聞けて、話せるの、すっごく癒されるしすごく嬉しいんだけど、いいのかな。タダでこんないい思いして」 　そう言うと、紘弥はまた電話口で笑った。 『気になるんだったら、また予約入れてください。そしたら営業電話ってことになりますから』 　浩一も笑う。上着を翻そうとする強いビル風も気にならなかった。 「明日のミーティングで色々予定が固まりそうだから、そうしようかな。君の予定と合うといいんだけど」 『……おれのお休みの日にかぶっちゃったら、言ってください。休み振り替えてもらうんで』 「ええ？　人のこと言えないけど、君もちゃんと休まなきゃだめだよ」 『浩一さんに会えるチャンスの潰れたお休みなんて、おれ一日ヘコんで過ごしちゃいますよ』 　その声は笑い含みだったが、冗談を言っているようには聞こえなくて、恋をする男は馬鹿だなぁと内心で呟いた。 「──ああ、早く君に会いたくなっちゃったよ」 『……おれも会いたいです。でも、おれ、ちゃんと待ってるんで、大事な仕事、がんばってください』 「……うん。紘弥くんも、仕事順調？」 『おれは……なんか、反省することが多くて、まだまだな気がします。スタッフさんは、できてる方だって言ってくれるんですけど』 「反省かぁ……紘弥くんらしいね」 『そうですか？』 「うん、今より良くなろうって思ってるところ、すごく好きだよ」 　返事はすぐに返ってこなかった。沈黙の時間を、都会の喧騒が埋めていく。 『……おれ、浩一さんが好きになってくれた分、浩一さんがこれからがっかりしたりしないように、色々がんばりたいなって思ってるんです。もっと……色んな意味で、素敵な人間になりたいなって……』 　浩一は微笑む。今すぐ抱き締めてしまい衝動が胸の中で膨らんだ。 「今より素敵になられたら、俺、今より君のこと好きになっちゃうよ？」 『……好きになってほしいなって、思ってるんです』 　浩一はすぐに声が出なかった。こんなに完璧な営業電話があるだろうか。そしてそれ以上に、彼が浩一の想いを受け止めてくれていることが嬉しくて、何だか泣いてしまいそうだった。 「……じゃあ、今よりもっと、君に心を奪われる覚悟をしておくよ」 　ふふ、と、ささやかで温かな笑い声が聞こえた。 『浩一さん、おれが連絡するの、お仕事の邪魔になったりしてませんか？　時間帯とか、言ってくれたら気を付けるんで、教えてくれると嬉しいです』 「そんな、やだな、邪魔なんてないよ。すごく嬉しいし癒されてるし励まされてる。俺の方こそ、君がお店に怒られたらヤだし、良くないことがあったらすぐ教えてね」 　はい、と答えた声は半分笑っていて、きっととても可愛らしい顔をしているのだろうと思った。 　駅が近くなって、電話を切らなければならないときが近付いて、浩一は切なくなる。紘弥の声をもっと聞いていたかった。 「じゃあ……紘弥くん、ゆっくり休んでね。声が聞けてほんとによかった」 『浩一さんも。電話してくれてありがとうございます。……おやすみなさい』 　おやすみ、と言って、通話が切れるのを浩一は待つ。しばらく経って途切れた通話画面を見て、ビルに切り取られた空を見上げた。 　思うように会えなくても、お金を介した関係でも、そんなことはもうどうでもよかった。彼が今日も元気で、彼らしくあって、その上で浩一にも心を配ってくれる。それ以上に望むものなどないと思えた。 　はじめは無用に思ったこの恋を、大事にしようと思いながら、浩一は駅の出入り口をくぐった。