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恋という名前 1

 廊下の先に誰より嬉しい姿を見つけて、紘弥(ひろや)は声を上げて駆け寄った。 「浩一(こういち)さん!」  両手を伸ばすと、満面の笑顔で腕を広げて迎え入れてくれる。その胸に飛び込んで、まるでそういう約束だったかのように目を閉じて口づけた。  抱き締めてくれる腕の力と包まれる温もりがとても心地よくて、紘弥は心ごと溶けそうな気持ちになりながら、浩一の顔を見上げた。 「来てくれて嬉しいです。ずっと待ってました」 「俺も会えて嬉しいよ。待っててくれてありがとう」  ふふ、とお互いに笑い合って、指を絡めて廊下を歩き出す。二人きりで夢のように愛し合える空間がすぐそこにあることが、幸せだとしか感じられなかった。  そんな熱烈な再会をした二人を覗き見ていたのは、紘弥の同僚である悠己(ゆうき)直純(なおずみ)である。  キャストは本来みだりに客用フロアに立ち入ってはいけないのだが、見つからなければ良いのだと思える程度には、二人とも肝が据わっていた。 「見たアレ……」  業務用の階段を降りながら、直純は呟いた。 「見た。何あれ?」  悠己も憮然とした様子で言う。 「あれで付き合ってないつもりなのかな」 「完全にサービスの域超えてるよね」  自分を指名してくれた客に駆け寄って抱きついて、キスをして手を繋いで部屋に向かう。それぐらいのことは悠己にとってはごく当たり前のことだったが、あのこぼれる笑顔と歓喜の声はさすがに真似できなかったし、そもそも悠己と紘弥ではキャラクターが違う。紘弥は甘えて媚びて男の気を引くタイプではない。朗らかで明るく、真面目ないい子だと評判で、実際そういう人間だった。  そんな紘弥が、予約の入った日からそわそわと待ちかねて、会えばああしててらいもなく喜んでみせるのが、浩一という名の男だった。独身で議員秘書をしているとかいう、金があっても使う暇がないような男で、店に来る頻度は決して高くなかったが、いつからか個人の携帯で連絡を取り合う仲にまでなっているらしかった。 「どう見ても両想いじゃん。向こうは告白済みなんだよね? なんで付き合わないわけ?」  直純は詰問するような口調で言った。悠己は眉を寄せて、知らないよ、と返す。スタッフ用のフロアをつかつかと歩いて、運営スタッフの詰め所に向かった。 「達成(たつなり)さんはー?」  カウンターを叩きながら悠己が言うと、伝票を見ていた若いスタッフがびくりとして、扉の向こうに声を掛けた。  ややあって揃いの制服を着た中肉中背の男が姿を見せ、悠己と直純が並んで立っているのを見て目を丸くした。 「なんだお前ら。喧嘩でもしたのか?」  そう言う達成は運営スタッフのチーフであり、悠己の恋人でもあった。しかし職場での二人は淡白なもので、交際前からほとんど態度に変化は見られなかった。 「それでなんでわざわざ仲裁してもらいに来るのさ。ねー、さっきのモニター見た?」 「さっきのってどれだよ」  店内の監視カメラのチェックも運営スタッフの仕事だ。悠己は子どものような仕草でカウンターを叩く。 「紘弥に例のお客さん来たじゃん。コーイチさん? ねえ見た?」 「見てないけど紘弥がどうかしたか?」 「なんで見てないの〜」  悠己はますます子どものようにカウンターに腕を乗せて足をばたつかせた。そんな子どもじみたことをしても違和感のない、幼く可愛らしい顔立ちと小さな身体をしているせいで、誰もそれを気にしなかった。 「決まりごとさえ守ってたら、キャストとお客さんが付き合ってもいいんですよね?」  直純が訊くと、達成は了解したという顔をして頭を掻いた。 「ああ……そういうアレか……」 「アレかじゃないよぉ。もうね、アレだけはほんと玉にキズだから。紘弥がどんだけお花畑になってるか知ってる?」 「お花畑って、お前」 「だってなんかもう少女マンガみたいだもん。なんであれでくっつかないの? 何か理由あるわけ?」  達成は黙って顎を撫でる。紘弥と浩一がどういう仲であるのかはおおむね把握していたし、悠己が『お花畑』と称するのもわからないではなかったが、それはとてもプライベートな問題だった。 「人が口出すようなことじゃないのはわかってますけど、紘弥の場合、人が口出さなかったら永久にあのままなんじゃないかって気がするんですよね」  直純は真顔で言った。遠慮がないように見えて、日頃他人にあまり干渉しない直純の言葉に重みを覚えて、達成は息をつく。 「……まー、ぶっちゃけモニタールームのスタッフからも似たような声は出ててな。お前らも気になるってことは、放っておいたらまた違うやつが何か言い出すんだろ。──俺が紘弥に話してみるから、それでいいな?」 「ほんとにぃ?」  悠己が疑わしそうな声を出す。自分が真っ先に達成を呼んだくせに、と思いながら、直純は何も言わなかった。 「なんで疑われなきゃなんないんだよ。大体悠己お前今日休みだろ。何してんだ」 「いいじゃんここが家みたいなもんなんだから」 「直純も準備しとけ。予約までもうすぐだろ」  はあい、と返事をして、直純は悠己の腕をつかんで踵を返す。悠己はつんとした顔をしていたが、達成と会話がしたかったのだろうと想像がついた。  男に夢を売る店の裏側は、いつだって恋の季節なのだ。

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