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恋という名前 3
会いたいです、と簡潔なテキストメッセージを、紘弥が浩一に送ったのはその晩だった。
浩一の仕事は深夜に及ぶことも珍しくないようだったから、返事は明朝かもしれないと思いながら自室で過ごしていた紘弥を、間もなくメールの受信音が呼んだ。
『どうしたの? 何かあった?』
その返信に、前のめりに心配する浩一の姿が目に浮かぶようで、紘弥は目を細めて笑う。紘弥にとって、浩一ほどいつでも優しく親身になってくれる人間はいなかった。
『忙しいのにごめんなさい。浩一さんと会って話がしたくて』
『そんなの気にしなくていいよ。でも、今泊まり込みで千葉だから、東京に戻るまでお店に行くの難しそうなんだけど、待っててくれる?』
『俺が会いに行ったらやっぱりまずいですか?』
『えっ!?』
文字の会話でも浩一の驚きが伝わってきて、紘弥は苦笑する。困らせているかもしれない、と思いながら、手の中の画面を見つめた。
『えっ紘弥くんが来るの? お店に叱られない? 大丈夫?』
『ちゃんと許可もらって行くので、大丈夫です。それより浩一さんのご迷惑になりませんか?』
『紘弥くんが会いに来てくれるのが迷惑なわけないよ。でもほんとに千葉まで来るの?』
はい、と返事をすると、浩一はすぐに泊まっているホテルを教えてくれた。仕事が忙しくないはずがないのに、紘弥を疎む気配がまったくないことに、いつもの浩一の温かさを感じた。
電話で話しても、メールをしても、浩一はいつだって優しい。自分が疲れていても、紘弥のことを気にかけてくれる。
そんな浩一が、自分に恋をしてくれたということを、もっと真剣に考えるべきだったと紘弥は反省していた。浩一と自分の人生は、この店の中でしか交わらないものだと思っていた。自分が浩一の世界に踏み込むことは、よくないことだとも思っていた。
けれど、浩一にとって何が良いことで何が悪いことなのか、それは紘弥が勝手に決めていいことではない。浩一が伝えてくれたように、自分も伝えるべきことを伝えて、お互いに考えなければならないことだ。
紘弥にとって、浩一の存在は支えでもあり、安息でもあった。彼の優しさと温もりを享受するばかりではなく、彼にも何かを与えたかった。彼が喜ぶことや安らぐことを、できる限りの方法で、金銭の対価なしに差し出したかった。
そのことを紘弥は浩一に伝えていない。浩一が紘弥のために払ってくれているだろう労力も、金銭も、覚悟も、何も返せていなかった。
それらを返してもいいのだということに、紘弥はこれまで気付かずにいたのだ。
──ここから出ちゃだめなんだと思ってた。
自分から浩一の人生に関わってもいいのだと思えずにいた。自分の立場が後ろ暗かったのかもしれない。浩一の経歴を汚すような気がしたのかもしれない。
しかしそれは、考えてみれば、紘弥の仕事をいつも気にかけて、励ましてくれる浩一にも失礼なことに違いなかった。
──ちゃんと会って、ちゃんと言おう。
どんな答が返ってくるのか、それは紘弥の考える問題ではない。浩一が出す答を、受け止める覚悟をすることだけが、紘弥のできることだった。
浩一の泊まるホテルに着いたのは、翌日の夜だった。
そこはよくあるビジネスホテルで、エレベーターに乗って教えられた部屋に向かう間にも、緊張で胸がざわざわとした。
部屋番号を何度も確かめて、ノックするまでに深呼吸を二回した。
「紘弥くん、ほんとに来てくれたんだ」
ドアを開けるなり、浩一はそう言った。まるで自分が紘弥を呼んだかのような口ぶりで、紘弥はすぐに言葉が出てこなかった。
「……俺が来たいって言ったんですから、そりゃ来ますよ」
「ああ、うん、ごめんね、つい嬉しくて。どうぞ入って。狭いけど」
浩一の自分を見る目がやけに眩しげで、そういえば私服姿で浩一に会うのは初めてなのだと気付く。一方浩一はいつものワイシャツとスラックスだったが、ネクタイを緩めて袖をまくっている姿からは彼の日常が垣間見えるようだった。
ドアを閉めて、ほんの短い廊下で紘弥は立ち止まる。狭いビジネスホテルの部屋は、もうそこにベッドが見えていて、そこまで行けば浩一の優しさに甘えずにはいられなくなる気がした。
「あの……俺、浩一さんにちゃんと言わなきゃいけないことを言ってなくて……」
そう口火を切ると、浩一の綺麗な黒い瞳が、いくらか見開かれて紘弥を見た。
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