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【9】
悠太郎は大雅から渡されたスマートフォンをじっと見つめたまま、何度目かも分からないため息をついた。
今まで使っていたスマートフォンと同じ機種ではあるが、悠太郎にとってそれはただの『道具』にしか見えなくなっていた。
大好きな大雅。会えない日はメモリーからアルバムを呼び出し、二人でふざけて撮り合った写真を眺めてはすぐそばに彼を感じることが出来た。ときに、その写真をオカズに自慰に耽ることもあった。
大雅との思い出や大切なメールが入ったスマートフォンは悠太郎の手から離れてしまった。代わりに渡されたのは悠太郎にとって必要最低限のアドレスが登録された『道具』だ。
小坂とのやり取りを収集すると言っていたが、悠太郎は密かに恐れていた。大雅が本当に自身のことに腹を立て絶縁するつもりでいれば、あのメモリーをすべて消去されるかもしれない。
そうなれば、今まで築き上げてきた大雅との関係も想いも全てなかったことになる。
『アカの他人』――大雅がそれを望むというのであれば、悠太郎は素直にそれに従うしかないのだ。
掌に収まったスマートフォンをもう一度眺め、小さく息を吐いた。
「――本当に終わっちゃったのかな」
あの日、社長室を出た時に打ったはずの終止符。しかし、悠太郎はそれをなかったことにしたいと切に思った。何度も忘れようととするたびに、大雅の優しげな顔が浮かんでは悠太郎の心を揺るがす。
心底好きになった者を完全に記憶から消すことは容易ではない。時間なんか、いくらあっても解決しない。まして、あんな別れ方をして心も頭も納得するはずがない。
やりきれない思いを抱えながら一週間が過ぎた夜、悠太郎はUプロテクトの警備所に詰めていた。
つい数時間前、北原が困ったような顔でここに戻ってきた。
そして、いつもなら満面の笑みを湛えて接してくる彼が実に言いずらそうに悠太郎に切り出したのだ。
「悠ちゃん。今夜の夜勤、変わってくれない? 彼氏から体調悪いって電話が来て……。朝から顔色悪かったから心配はしてたんだけど……。いろいろと無茶ばかりする彼のことだから放っておけないのよ」
本来であれば悠太郎のシフトは早番で午後五時には退勤しているはずだった。だが、信頼する上司であり友人である北原のたっての願いとあらば断るわけにはいかない。
一見コワモテで迫力のある北原だが、同棲中の年下リーマンに心から惚れていることは、彼の言動からすぐに感じ取れた。どちらがどう……という深い詮索はしないが、北原に溺愛されている彼は幸せ者だ。
彼のために食事を用意し、洗濯やクリーニングの手配まできちんとこなしている北原は、どことなく悠太郎と重なる部分が多かった。好きな人のためなら健気にもなれるし、そのための労力や時間もまったく苦にはならない。
「――大丈夫ですよ。俺、予定ないので」
そう言ってから胸に刺さったままの小さな棘の痛みを感じて、わずかに眉を顰める。
家事が出来ない大雅のことだ。おそらく彼の部屋は今頃、ハウスキーパーも白旗を揚げるほどに荒れていることだろう。
自分で食事を作ることがないため外食が増え、健康状態にも不安が募る。
多忙な彼は、生活することよりも仕事を最優先する傾向がある。悠太郎はそれを危惧していた。
「――本当にゴメンねぇ! この埋め合わせはどこかで必ずするからっ! 悠ちゃんがデートの時は遠慮なく言って頂戴」
「デートって……。そんなの、ない……ですから」
精一杯の虚勢を張ってみるが、悠太郎は落ち着きなくスマートフォンを手で弄んだ。
北原はそれを申し訳なさそうに見つめていたが、自身の顔の前で両手を合わせた。
「悠ちゃん、本当にゴメン!」
「気にしないでください。さあ、早く帰ってあげないと……彼氏さん、北原さんの帰りを待ってるんじゃないですか?」
「あっ、そうね! 急いで帰らなくちゃっ」
ハッと我に返った北原は、自分のデスクの上にあった書類と通勤用のリュックを手にすると、足早に出口へと向かった。
「北原さん! 着替えは?」
制服のまま帰ろうとする北原に気付いた悠太郎が慌てて声をかけると、彼は腕時計を気にしながら早口で応えた。
「今日はこのまま帰るわ! タクシーで帰るからっ」
「はぁ……。そうですか。じゃあ、お大事に……」
「じゃあね! お疲れさま~っ」
警備員歴が長い北原が制服を着たまま帰宅するなんてことは滅多にない――というか、悠太郎と一緒に仕事をするようになって初めてのことかもしれない。
交通整理や車両誘導などの現場で着替える場所や詰所がない場合のみ、制服着用のままの通勤が許可されている。しかし、悠太郎と北原が所属するH総合警備サービスの規定では、企業内に設けられたの警備所がある場合は原則として私服で通勤し、その場で着替えるという決まりになっている。警備会社によって規定はまちまちだが、この制服のままで通勤電車に乗ることは気分的に落ち着かない。
「タクシーで帰るんなら、いっか……」
悠太郎は静まり返った警備所で一人、今度は遠慮することなく大きなため息をついた。
業務日誌にこの事を記入し、地下駐車場の警備担当者にその旨を伝え、少し早目の夕食を済ませた悠太郎は壁に掛けられた時計を見上げると重い腰を上げた。
夜間勤務担当者は、数回社内の見回りを行う。午後七時の時点では、まだ残業をしている社員やスタッフが多く、社内は比較的明るい。しかし、午後十一時ともなると各フロアは闇に包まれる。
悠太郎はLED懐中電灯を手に、警戒棒と無線機などの装備品の確認をしてから警備所を出た。
日中は人の出入りが激しく騒然としている社内だが、深夜にもなると耳が痛くなるほど静まり返る。そのギャップがより恐怖心を煽るのだが、もう何度も夜間勤務を経験している悠太郎は決められたルートを足早に回っていく。
トイレや喫煙ルーム、鍵のかかっていない部屋などは一通りドアを開けて異常がないことを確認する。
自身の靴音がやけに響くのが気になるが、それ以外は至って何も変わらない通常の夜間業務だ。
何事にも機密を要するIT企業ゆえに、各フロアや部署の入口にはセキュリティシステムが設置されている。社員が持つIDカードと暗証番号で管理され、警備員である悠太郎でさえも足を踏み入れることが許されないエリアもある。
そこはガラス張りでフロア内が見渡せるようになっており、照明の消し忘れなどは集中管理室で操作することが可能だ。警備員にとっては親切な作りになっているが、時々まだ残っている人の気配に息を呑むことがあった。
「――深夜残業してるスタッフはいないみたいだな」
ボソッと呟いて、周囲に視線を巡らせる。
約一時間ほどかけてすべてのフロアを見回り、警備所に戻ろうとエレベーターホール脇の階段をゆっくりと下りていた時だった。
非常灯の緑色の光が広がる薄闇の中で人影が横切ったような気がして、悠太郎は緊張に身を強張らせた。
靴音を立てないように階段を下り、壁から顔を覗かせてエントランスの方を見たが、人影らしきものは見当たらない。緊張で渇く喉に何度も唾を呑み込んで、ゆっくりと懐中電灯で行く先を照らしながら足を進めると、エレベーターホールの方からカツンと靴音が響いた。
「どなたかいらっしゃいますか?」
音のした方に声をかけるが、大理石の壁は悠太郎の声をただ響かせただけだった。
手にした懐中電灯を向け、目を細めていた悠太郎が振り返ろうとした瞬間、二の腕を物凄い力で掴まれ後ろから羽交い絞めされた。その力に、相手が男であるということが分かった。
「なっ! 誰だ……っ」
懐中電灯が床に転がり周囲を暗闇が支配する。悠太郎はその腕から逃れようと必死にもがいてみるが、動けば動くほどきつく締めあげられる。
「やめろ……! 放せっ」
被っていた帽子が落ちて足元に転がった。
歯を食いしばり、背後にいる相手の隙を窺う。形勢が逆転できれば、武術を心得ている悠太郎の方が優位になれる。しかし、がっちりと押えこまれた腕は身動きを許してくれない。
「警察を……呼ぶぞ! 放せっ」
息も絶え絶えにそう叫んだ悠太郎だったが、次の瞬間大きく目を見開いたまま動きを止めた。
「――悠ちゃん。やっと会えたね」
「え……」
悠太郎の耳に生暖かい息がかかる。そして、その声は悠太郎が良く知る男の声に似ていた。
「こ……こさか……」
「スマホ、変えた? 俺、何度もメール送ってたのに無視するとか……。つれないよね……俺の前で可愛い顔晒してイッちゃったくせに」
「知らない……俺は、何も……っ」
小坂の舌が悠太郎の耳朶をなぞるように這った。その感触に全身に鳥肌がたち、背筋がすっと冷たくなっていくのを感じた。
「――でも、今夜は夜勤だってメールくれたでしょ? 嬉しかった……。俺とイイことしたいって……寂しかったんでしょ? 今夜は……ハァハァ……たっぷり可愛がってあげるからね」
「やだ……。そんなメール、して……ない!」
悠太郎のシフトが夜間勤務に変わったことを知っているのは、北原と地下駐車場担当警備員、そして大雅と帰り際に挨拶を交わした数人のスタッフだけ。
その中に小坂と精通している者がいるのでは……と、一瞬誰もを疑った。
しかし、小坂に対してメールを送ることが出来る人物となればその数は一気に絞られる。北原は悠太郎と小坂の関係は知らない。あとは小坂が以前ここに勤務していたことを知っているスタッフならばメールアドレスくらいは知っているかもしれない。だが、わざわざ悠太郎の名を使って送るだろうか?
それも前説同様、悠太郎と小坂の関係を知る者でなければ不可能だし、もし送ったとしてもその人物にメリットはない。
(じゃあ、一体誰が……)
悠太郎は一番考えたくない人物の顔を思い出し、小さく首を左右に振った。
「自分から誘っておいて……。ククッ。それにね、今夜はお仕置きもするよ。――あの男とまだ繋がってるんだね? 許せないな……」
「あの……男って」
小坂は悠太郎の耳朶にやんわりと歯を立てると、喉の奥で低く笑った。
「――久保園社長」
「え……」
疑いたくない――でも、小坂と悠太郎の関係を把握し、尚且つ悠太郎のスマートフォンを預かっている大雅なら、彼に連絡を取ることは可能だ。
小坂の口から大雅の名が出た瞬間、悠太郎の頭を過ったのは『裏切り』の文字だった。
「いい男だよね……。仕事も出来る、容姿も完璧。でもね……俺の誘いを断ったんだよ。可愛い顔して、言う事は辛辣で……ああいうタイプって泣かせたくなるよね。とことん貶めて、俺なしじゃ生きられないほどグズグズに調教して……「チ〇コが欲しい」ってオネダリさせたくなる。俺の脚に縋りつきながらね……」
小坂の口から次々と溢れるあり得ない妄想と独り善がりの淫らな欲望。
大雅は、こんな男の誘惑に乗るような軽い男ではないことは悠太郎が一番よく知っている。むしろイラついて突っぱねるのが常だろう。それを根に持っているのか、小坂は悠太郎の胸元を弄りながら続けた。
「何度誘ってもダメだった。仕舞いには俺をクビにしやがって……。こんなに愛しているのに、どうして? 俺以外に彼を愛せるヤツがいる? なぁ……悠ちゃん。どうしてお前は……久保園社長に愛される?」
「……」
「お前ばっかり見てる……。俺がこんなに愛しているのに……俺の方を見てくれない」
「な……何を言って……んっ」
小坂の手が上着の合わせ目から忍び込み、ワイシャツの上から悠太郎の乳首を摘まんだ。その痛みに、無意識に鼻にかかった声が漏れた。
「可愛い声で啼いたの? 彼の前で……」
「し、ら……ないっ」
「妬けるよね……。ぶっちゃけ、お前がいなければ俺のモノになったのに」
「え……」
「だから、悠ちゃんを犯そうって決めた。好きな人が目の前で犯されるのって……どんな気分かなぁ~って。俺のチ〇コ、イヤらしいお尻の孔で咥えこんでアンアン啼いてる悠ちゃん見たら絶望するかな~って。そしたらさぁ、俺のモノになるでしょ? お前みたいなビッチを相手にするより、俺に甘えてた方が幸せになれるんだから……」
気持ちが悪い。吐き気が込み上げてくる。
悠太郎は眉間に刻んだ皺をより深くして、喉をせりあがってくる物を必死に呑み込んだ。
胸を弄る小坂の手を押えこんだ自身の手が小刻みに震えている。その震えは徐々に大きなものとなり、全身に広がった。
「――震えてる。怖いの?」
怯える悠太郎を楽しむかのように小坂が笑う。ワイシャツの上で尖った乳首を転がしていた指が不意にきつく摘まみあげた。
「ひぃっ!」
「痛い? それとも……気持ちいい? どうせ防犯カメラは通常に作動してるんでしょ? ねぇ、ここでセックスしようか? 社長に見せつけるように……グチュグチュって奥まで突き上げてさ。きっと嫉妬するだろうね……お前を抱いてる俺にさ」
小坂がクビになった決定的な理由。それは大雅に対するストーカー行為。
自分勝手で利己的な捩じれた感情。大雅に向けられた小坂の歪んだ想いが嫉妬を生み、悠太郎に向けられた。
だから小坂の言いなりになる悠太郎に腹を立て、社長室であんな真似をした。自分から遠ざけることで、小坂の目を再び自分に向けさせようとしていた。
(それなのに……なぜ?)
悠太郎は渾身の力を込めて小坂の腕を振りほどくと、ロビーに立つ大きな柱に背を預けて肩で息を繰り返した。
「近づくな……。それ以上、近づいたら警察を呼ぶ!」
腰ベルトに掛けられた無線機を掴むと、威嚇するようにゆっくりと口元に運んだ。
プレスボタンを押しながら声を上げれば、地下にいる警備担当者が駆けつけるはずだ。
悠太郎は唇を噛みしめたまま小坂を思い切り睨みつけた。イマイチ迫力が出ないことは分かっている。しかし、ここで怯んだら彼の思うつぼだ。
「へぇ……呼んでみれば?」
小坂は来ていたカーキ色のコートのポケットから何かを取り出すと、首をわずかに傾けて悠太郎に近づいた。
そして次の瞬間、悠太郎の目の前に銀色の細い光が閃いた。
「ひっ!」
小坂が手にしていたのは鋭利な刃先のナイフだった。刃渡りは十五センチほどで、どこでも市販されている小型ナイフだった。
「――ここで思い切り犯して、恥ずかしい格好のままあの世に送ってあげる。そうだな、ビッチの最期らしく、ケツ〇ンコにナイフを突っ込んでおこうか? ククッ! 久保園社長に失恋した憐れな男の最期……。彼の会社で男を誘ってセックスしたあと自殺……。当てつけには最高の演出だな」
体が動かない――。
警備員になることは、いつ訪れるかもわからない恐怖と向き合うこと。それを克服するために、体と一緒にメンタルも鍛えてきたはずなのに、いざという時になってまったく役に立たないことを知る。
いつもの悠太郎ならば隙をついて小坂を突き飛ばして走ることが出来るはずなのに、なぜか体は言う事を聞かなかった。
悠太郎は何度も首を横に振った。
「やだ……。そんなこと、出来るわけ……ないっ。大雅に……もう、迷惑……かけたくない」
「じゃあさ、脱げよ。自分でその服を脱いで裸になれ。あーっと、ストリップみたいに俺を誘うように脱ぐんだぞ? 気持ちいことはそれからだ」
「そんなこと……出来るわけ、ない!」
「――じゃあ、セックスしないであの世に行く? 快楽を知らない処女のまんまじゃ可哀想かなって……俺の優しさが分からないのかなぁ」
確実に間を詰め、にじり寄る小坂の下卑た笑いが静まり返ったロビーに響いた。
耳に入ってくる声は不快でしかない。それなのに悠太郎の下肢はなぜか熱くなっていた。
地下駐車場で刷り込まれるように囁かれた小坂の声と愛撫が蘇り、体が勝手に熱を孕んでいく。
「お前となんか……しない。絶対に……しないっ!」
精一杯張り上げた声は震えていた。小坂の声に欲情する自分が疎ましい。自身に対し意気地のなさに呆れ、そして腹を立てた。
大雅に対する想いはその程度のモノだったのか。苛立ちは徐々に募っていく。
小坂の手が真っ直ぐに伸び、悠太郎の首に押し当てられる。
「――知ってるか? イク直前に首を絞めると、強烈な快感を味わえるんだよ。試してみるか?」
「やだ……やだ……っ」
彼の手にグッと力が入り気管が圧迫される。
そして、ナイフを持ったままの手が悠太郎の股間をスルリと撫でた。
そこは悠太郎の意思とは関係なく力を持ち始め、スラックスの生地を持ち上げていた。
「イヤらしい男だな。もう勃ってるじゃないか……」
「違う! これは……違うっ」
「真性のドM……。ちょっと殺すのが惜しくなってきたな」
ニヤリと薄い唇を曲げて笑った小坂は乱暴に股間を撫で回すと、ナイフを悠太郎の頬にそっと押し当てた。
「――脱げよ。犯してやるからさ」
獲物を捕らえた獣のような冷酷な瞳はどこまでも空虚で、欲望の色が濃く滲んでいた。
舌なめずりをしながら顔を近づけた小坂から逃げるように顔を背けた悠太郎は、恐怖から短い呼吸を何度も繰り返す。
息が出来ない……。胸が苦しい……。
極度のストレスで過呼吸になりかけ、自身のネクタイを緩めようとノットに手を掛けた時、ロビーの照明がすべて点灯し、その眩しさに思わず目を瞑った。
すぐそばで小坂が息を呑む音が聞こえ、その後で硬い靴音が近づいてくるのが分かった。
「――それ以上、薄汚い手で彼に触るな」
抑揚のない低い声。ハッとした悠太郎は声のする方に視線を向け、信じられない思いで目を見開いた。
「大雅……?」
「元社員だからといって、社内への立ち入りを許可した覚えはない。これは立派な不法侵入だ。それに……当社の警備員をナイフで脅し、レイプしようとする……とか。ハッ、クズはどこまでもクズだな。俺がそんなクズに靡くとでも思っているのか? ナメられたものだな……」
きっちりコーディネートされたスリーピースを隙なく完璧に着こなし、深夜であるにもかかわらず疲れをまったく感じさせない。
片手をスラックスのポケットに浅く入れたまま悠太郎のもとに歩み寄った大雅は、ちらっと視線を向けてからすぐに小坂に向き直った。
そう――悠太郎を背に庇うような格好で。
「久保園社長……あぁ、やっぱりいい男だ。どうだ? 俺に抱かれる気になったか?」
「寝言は寝てから言え! 貴様になぜ抱かれなきゃならない? 最近、姿を見ないと思ったら彼に付き纏っていたとは……。どこまでも迷惑なクソ野郎だな」
「アンタが俺を見てくれないからいけないんだろう? 俺はアンタをこんなに愛してるのに……」
「胸糞悪い! 貴様なんぞ見る価値もないわ! 俺の目に映るのは眩い光を纏った未来ある物だけだ。貴様のように過去に縛られ、歪んだ恋愛感情という亡霊に憑りつかれた男など眼中にない。さっさと消えろ!」
フンッと鼻を鳴らし見下すような目で睨みつけた大雅に、小坂は徐々に怒りの色を滲ませた。
野性味の溢れる意思を持ったこげ茶色の瞳、畏怖を纏う堂々とした佇まい、何より取り乱すことなく思ったことを直球で口にする大雅の姿に一瞬怯んだかのように見えた小坂だったが、薄い唇を歪にし下卑た笑い声を発した。
「――アンタも俺を愛している。人前だからって、そんなに照れることはないだろう? 素直になれよ……可愛い大雅ちゃん」
その言葉に、大雅のこめかみに青い筋が浮き上がった。
「誰が貴様を愛してると言った? 思い上がりもいい加減にしろ! 俺がクズみたいな男を愛すわけがないだろう……」
「――ビッチは愛せるのに、俺は愛せないってか?」
「はぁ? 誰がビッチだ?」
「男に誘われればチ〇コをすぐにおっ勃てて欲情する、その警備員だよっ!」
大雅は呆れたように大きなため息をついて、ちらっと肩越しに悠太郎を見た。
「――そうなのか?」
「ちがっ! そんなわけないだろっ」
再び、小坂に向き直った大雅はすっと目を細めて怒りを露わにした。
「侮辱罪も追加……だな」
低く唸る様に言った大雅に、小坂は手にしていたナイフの刃先を向けた。
「それは俺のセリフだ。俺を侮辱しやがって……。こんなにアンタのことを愛しているのに、どうして分かってくれないんだ!」
「貴様が抱いているのは愛じゃない。クソだ!」
冷たく言い放った大雅に、小坂はナイフを振り上げた。そして冷たく光る刃を閃かせながら闇雲に腕を振り回し大雅を襲った。
「大雅、あぶないっ!」
大雅の背後にいた悠太郎が咄嗟に手を伸ばした。それまで恐怖で動かなかった体が、まるで魔法が解けたかのようにスムーズにしかも俊敏に動いた。
しかし、悠太郎が動くよりもわずか早く、大雅が小坂の腕を薙ぎ払っていた。
その際、鋭く光る刃先が大雅の腕を掠ったかのように見えた。だが、大雅は至って冷静に小坂の腕を掴み上げると、手にしたナイフを叩き落とした。
「ううっ! クソッ!」
大理石の床に小坂を組み敷く様に押し倒した大雅は、そのナイフを手の届かない場所に蹴った。
磨かれた床の上を滑っていくナイフ。そして訳のわからない暴言を繰り返す小坂。
エントランスの自動ドアが開き、北原と大雅の秘書である滝野を先頭に数人の警察官がなだれ込んできた。スーツ姿のコワモテの男が大雅に敬礼し、小坂に手錠をかける。
「――ストーカー容疑、及び不法侵入の現行犯で逮捕する。余罪は署でゆっくりとあらってやる」
腕を掴みあげられて連行された小坂は、何度も振り返りながら大雅に暴言を吐いた。そんな声など全く聞こえないというような顔で、そばに歩み寄った秘書の滝野を睨みつけた。
「――滝野、来るのが遅い!」
「申し訳ございません、社長」
「もう少し遅かったら怪我を負わせていたかもしれないんだぞ! 大切な体に傷でも残ったらどうするつもりだったんだ?」
滝野に詰め寄った大雅の肩を軽くポンポンと後ろから叩いたのは北原だった。
「そんなに熱くならないの! 滝野だって頑張ったんだから……許してあげて。それより……ハトが豆鉄砲くらったみたいな顔してる悠ちゃんにちゃんと説明してあげて」
ウフッと肩をすくめながら笑った北原は足音を忍ばせるように滝野のそばに近づくと、骨ばった滝野の長い指先に自身の指をそっと絡めた。頬をわずかに染めて俯きながら照れる北原と、クールな表情を崩さない滝野を交互に見ていた悠太郎は、自身のそばに大雅がいることにも気づかなかった。
「――怪我はないか?」
「え……? あぁ……大丈夫――って! 大雅、お前が怪我してるっ」
「あ? あぁ……かすり傷だ」
オーダーメイドのスーツの腕の部分が大きく裂け、白いワイシャツに血が滲んでいた。悠太郎は慌ててポケットからハンカチを取り出すと傷口に押し当てた。
「ヤバいな……結構、傷が深いかも。滝野さん! 社長を病院にっ!――ふっ」
焦って声を上げた悠太郎だったが、不意にその唇を大雅に奪われた。何かを確かめるように唇を啄み、わずかに開かれた隙間から舌が忍び込む。歯列をなぞり、口蓋を何度も撫でるように愛撫する大雅の舌が動くたびに、悠太郎の唇から吐息が漏れた。
「――病院に行ったら、お前と一緒に帰れないだろ」
唇を触れ合わせたまま掠れた声でそう呟いた大雅に、悠太郎は眉をキュッと寄せて彼を押し退けた。
「バカ! 傷の手当の方が先だろ……。俺と帰るのなんて……どうでも、いい……だろ」
「良くない! これ以上、お前を危険な目に遭わせるわけにはいかないからな」
「子供扱いするなっ! 病院……行けよ!」
「行かない」
「行けって!」
「行かない……」
「あぁ、もう! 一緒に行こう……か」
「うん……。お前が一緒なら行くっ」
両者一歩も譲らない押し問答に早々根負けしたのは悠太郎の方だった。
昔から頑固で自分の意思を曲げない大雅だが、なぜか悠太郎の言う事だけは素直に聞く。
「――ホント、昔から変わらないよな」
嬉しそうに唇を綻ばせながら、わずかに身を屈めて悠太郎を覗き込んだ大雅はもう一度唇を重ねた。
触れては離れ、離れてはより深く繋がるキス。
北原と滝野がいると分かっているのに、悠太郎は不思議と恥ずかしいとは思わなかった。
二人きりの時にだけ見せる大雅の優しげな顔がすぐそばにあって、思わず熱くなった頬を隠すように俯いた。
「大雅……」
「なんだ?」
「俺……」
言いかけてキスで濡れた唇を噤んだ。
言いたことはたくさんある。聞きたいことも同じくらいたくさんある。
でも今は――。
「――病院に行くよ! ここから一番近い緊急外来は……っと」
腰に回しかけた大雅の腕をやんわりと押し退けて、代わりに彼の上着の裾を掴む。それを引っ張りながら歩き出した悠太郎に、滝野が自身のスマートフォンを見ながら言った。
「橋立さん、近くのK総合病院で受け付けてくれるそうです。タクシーを手配しましたので、社長をお願いします」
さすが大雅の右腕と呼ばれる有能な秘書だ。悠太郎は「ありがとうございます」と頭を下げると、再び大雅を引っ張って歩き始めた。
「悠……。さっき、言いかけてたこと、気になる」
「忘れて」
「絶対に忘れない!」
「気にするなって言ってんの!」
「そう言われると気になるだろっ」
ムキになり始めた大雅を肩越しに振り返ると、悠太郎はふと足を止めて真面目な顔で大雅を見つめた。
「――お前が俺に送ったメールって、何が書いてあったの?」
大雅は一瞬息を呑んですっと目を逸らし、少し目線を落としたまま含みのある声で言った。
「――秘密だ」
「それってズルい!」
咬みついた悠太郎をやんわりと制し、今度は大雅が悠太郎の腰に手を回して歩き出した。エントランスを抜け、タクシーの車寄せのあるロータリーまで並んで歩く。
冷たい夜風が二人の頬を撫で、それまでの興奮と恐怖が嘘のように浄化されていく。
ずっと気になっていたメールの内容。社長室でやるせなさそうに髪をかきあげながら、悠太郎に見せた怒りを含んだ苦しげな表情。
『――なんで、メール見なかったんだよ』
あの夜、大雅が送ってくれたメールを見ていたら何かが変わっていたのだろうか。
もう、あんな苦しげな大雅の顔は見たくない。
悠太郎は大雅の長い指先を責めるようにそっと掴んだ。それに気づいた大雅だったが、何も言うことなく視線を指先に一瞬向けただけだった。
「――大雅、ごめん」
小さく呟いた悠太郎に、大雅は顔を背けたまま乱れた黒髪を乱暴に掻き上げた。掠れた声が少し高い位置から悠太郎に落ちてくる。
「なんでお前が謝るんだよ」
「だって……」
「――それ以上、何も言うな。傷が痛む……から」
「え……」
驚いて目を瞠った悠太郎に、クスッと肩をすくめて笑った大雅。彼の意地悪だと気づいて、ムッと唇を尖らせたところに、滝野が依頼したタクシーが横付けされた。
後部座席に並んで座り、行先を告げると大雅はゆっくりと目を閉じた。
「――痛むのか?」
「少しな……。それよりも……ここが痛い」
そっと自身の胸に手を当てた大雅はそのまま口を噤んだ。悠太郎はすれ違う車のライトに照らされる彼の端正な横顔をただただ見つめることしか出来なかった。
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