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 大雅の怪我は見た目よりも酷くはなく、それでも三針ほど縫うことになった。包帯を巻いた腕を気まずそうに隠しながら俯く大雅を気遣うように、悠太郎は彼のマンションに向かった。  セキュリティ万全のタワーマンション。しかし、一緒にエレベーターに乗り大雅の部屋の前まで来た悠太郎はふと足を止めた。  ここのところ大雅の部屋には一度も訪れていない。家のことに関してはまったく無関心な大雅のことだ。おそらくこの中は凄惨な状況になっているに違いない。今までもハウスキーパーに白旗を挙げさせているレベルなのだから、悠太郎には大体の予想が出来た。 「――どうした?」  怪訝そうな顔で悠太郎を覗き込んだ大雅は慣れた手つきでドアロックを解除した。本音を言えば、すぐにでもベッドに倒れ込んで眠りたい――それほど悠太郎の身体も心も疲弊していた。だが、この部屋に足を踏み入れたら最後、否が応でも足の踏み場を確保しなければならなくなる。 「あ……いや。別に……」  視線を泳がせながら曖昧な返事を返した悠太郎の髪をクシャリと撫でた大雅は、少し困ったように眉を下げた。 「何を心配しているんだ?」 「何でも……ない」 「警備会社の方には明日のお前のシフト変更を滝野の方から連絡させておいたから、心配することは何もないぞ?」  ドアハンドルに手を掛けた大雅がわずかに顔を顰める。傷は軽いとはいえ、やはり痛むのだろう。  大好きな大雅にそんな顔を見せられて放っておけるほど悠太郎の迷いは強いものではなかった。 「あぁ……やっぱりダメだ!」 「何がだ?」 「何でもない! 大雅は早くシャワー浴びて寝た方がいいっ!」  訳が分からずに立ち尽くす大雅を押し退けるように玄関ドアを開けた悠太郎は、照明のスイッチに手を掛けた瞬間、息を呑んだ。  リビングに続く廊下に置かれている物は一つもなく綺麗に磨かれ、いつもなら玄関に脱ぎ散らかしているはずの靴もきちんと整理されている。 「え……?」  自分が想像していた光景とはまるで違う世界に、今度は悠太郎が茫然と立ち尽くした。  ドアを閉め、後ろから悠太郎の腰を抱く様に手をかけた大雅がそっと耳元で囁く。 「どうした? 悠……」 「俺が来なかった間、部屋の掃除……どうしていたんだ? 俺……壮絶な状況を予想していたんだけど」  驚いた顔のまま、ゆっくりと肩越しに振り返った悠太郎に、大雅はクッと肩を揺らして笑った。 「――俺、お前にどんだけダメ人間に見られてる?」 「え? だって……大雅、家事出来ないじゃん。料理だってしないし、片付けだって……」  悠太郎の髪に顔を寄せ、後ろから抱きしめた大雅は小さく吐息した。 「――逃げられたよ、ハウスキーパーには。お前に『会いたくない』って言われたあと、この部屋はお前が想像していたであろう状況だった……。でも――」  悠太郎の前に回された大雅の手に力が入る。背中を彼の胸に押し付けるくらい強く抱きしめられた悠太郎は耳朶を甘噛みされ、そのくすぐったさに身を捩った。 「お前に甘えている自分に気づいたんだ。部屋を汚せばお前が来てくれる。文句を言いながらでも片付けてくれる……。悠……お前をこの部屋に呼ぶ口実を作っていただけなんだよ」 「大雅……?」 「会いたいって想いには本来、口実も理由もいらないんだよ。でも――素直になれなかった。ただの幼馴染だって片付けられそうな気がして……怖くて言い出せなかった」  会社では傲岸なドS社長。辛辣な言葉も平気で口にする絶対的な存在。そんな彼が唯一、弱さを見せるのは悠太郎の前だけだった。  でも――彼の口から出た『怖い』という言葉を聞いたのは今日が初めてだった。  怖いモノなんか何もない。いつだって悠太郎を守ってくれた彼の口から漏れた真実の声。 「小さい頃からいつも一緒で、いつだって俺を慕ってそばにいたお前を失うことがどれだけ怖いことか。そんなこと、ずっと昔から分かっていたことなのにな……。ただの幼馴染なんかじゃない……お前のことが好きで好きで堪らなかった。だから、誰にも触れさせたくなかった。お前を泣かす奴らが許せなかった……」  悠太郎は激しく高鳴る心臓の音が大雅に聞こえてしまうのではないかと自身の胸元をグッと押さえつけた。  ずっと片想いだと思っていた……。憧れが恋心に変わった時、ずっとその想いを隠して彼を守ろうと決めた。  大切な人だから……何よりそばにいて欲しいから。それなのに――。 「小坂の行動は常にリサーチしていた。俺のストーカーだったアイツが突然、ターゲットを悠に変えたことは予想外の展開だった。お前を面倒なことに巻きこまないように注意していたんだが……俺の些細なミスが結局こういう結果を招いてしまった。でも、お前は自分を犠牲にして小坂の言いなりになった。俺に気を遣ってのことだとすぐに気づいたが、小坂を挙げるには確証がなさ過ぎたんだ。そこで、少しの間泳がせておいたんだが、アイツにお前が襲われたと知った時、自分の無能さに腹が立って仕方なかった。お前の体にアイツが触れたって考えるだけで、自分をコントロール出来なくなった。だから……俺のモノにしたかった。無理やりにでも身体を繋げて、俺のモノにしたかった……。最愛の人も守れない俺は最低な男だって……何度も自分を責めた。すべて俺の責任だ……」  悠太郎の肩に顔を埋めたまま涙声で切々と話す大雅。その声にはいつもの自信と力強さはなかった。 「ごめん……。悠……」  いつの時も守られていたのは自分だったということに気付く。いつまでたっても大雅にとって悠太郎はお姫様でしかなかったのか。 「――俺は、大きくなったらお前を守るために強くなろうって決めた。武術も習得して警備員にもなった。それなのに……なんで! なんで小坂にストーキングされてることを言わなかったんだよ! 怪我までして……なんでっ」 「お前を守ることで俺はいつも自分が優位に立っていると錯覚していたんだ。優しくて心強いと思わせて、慕ってくるのを期待していた。そして、いつか好きになってくれる……そう思い込んでいた。だから、守らなきゃ……って。でも、違ってた……」 「何が……違うんだよ。俺を騙してたってことだろ?」  悠太郎は自分の至らなさに滲んだ涙を零さないように強気な口調で言った。大雅を守るために一度は別れまで決意した。幼馴染という関係さえも白紙にしようとした。  しかし、それは全部大雅の手の内で転がされていたことだと知った。 「俺はそんなに……頼りないのか? ずっと好きだった男も守れない……弱虫だって思ってるのか?」 「違うっ!」  きつく眉を顰め、苦しげに悠太郎の言葉を遮った大雅は小さく首を振った。  それは、さっきタクシーの中で自身の胸を押えながら悠太郎に見せた表情によく似ていた。 『ここが痛い……』  今まで悠太郎に真実を明かすことがなかった大雅。隠していることの罪悪感と自身の想いが彼を苦しめていたのだろうか。  だが、悠太郎は大雅が思う何倍もの苦しみを味わった。  悠太郎は大雅の腕からすり抜けるようにして身体を反転させると、それまで胸の中で渦巻いていたすべての感情を声に出してぶちまけた。 「お前を守るためなら小坂に抱かれても良かった。お前さえ無事ならば……って、小坂のペットになる覚悟までしたっ」 「悠……」 「――でも、出来なかった。お前のことばっかり考えて、仕事にも手がつかなくて。会わないって決めたのに、会いたくて仕方がなかった……。やっぱり俺はお前を守ることは出来ない弱虫だって……心のどこかでは自覚してた」  劣等感に苛まれ、悠太郎は俯いたままそれまで我慢していた涙をついに零してしまった。  大雅を不安にさせたくない。彼の前では強気でいよう……そう決めたはずなのに。  心の声は悠太郎の思いに反して、隠しておきたいことまでも漏らしてしまう。  悠太郎は大雅の上着を掴んだまま肩を震わせた。一度堰を切ってしまった感情は簡単には抑えられない。  込み上げる嗚咽を必死に我慢しつつ、やりきれない思いを大雅の厚い胸板にぶつけるように拳で叩いた。  そんな悠太郎の背中に手を回した大雅は、再び髪に顔を埋めながら言った。 「――俺はお前に守られていた。ずっと前から……」 「なに、言ってんだよ……」 「お前がそばにいるだけで、俺は強くなれた。両親からのプレッシャーにも、一流大学への進学も、こうやって企業を立ち上げて社長になることも……怖くなかった。危険や障害なんかの物理的な要因から守るだけが『守る』じゃない。大切な人への一途な想いを保っていられることも『守る』ことなんだ。俺はお前の想いに守られていた……何よりも強く、決してブレることのない鉄壁の守り。その想いに応えるために強くなろうって……思った」  掠れた低い声。悠太郎が大好きな大雅の声はどこまでも優しく穏やかだった。  大雅にしがみつく様に背中に腕を回した悠太郎は、彼の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。 (好きだ……。やっぱり大雅のことが好きだ!)  もう自分の気持ちにこれ以上嘘はつけない。彼の本心を聞いてしまったからではない。それ以前に、爆発寸前だった彼への想いを抑えることは難しくなっていた。 「――も、限界」  震える声でボソリと呟いた悠太郎は、体を密着させて大雅を玄関ドアに押し付けると、背伸びをして涙に濡れた顔を上げた。  すぐそばにある端正な顔立ち。その頬に自分と同じ涙が光っていることに気付いた悠太郎は迷うことなく、彼の唇に自分の唇を押し当てていた。 「ん――っ」  驚いた大雅は一瞬目を見開いたが、すぐに嬉しそうに目を細めると悠太郎の腰を強く抱き寄せた。  互いの乾いた唇を潤すように何度も啄んでは、漏れた吐息の合間に再び重ね合う。  悠太郎が伸ばした舌に応えるように大雅が舌を絡めては角度を変え、悠太郎の口内を愛撫する。 「さっき……言えなかったこと」 「ん?」  興味深げに小首を傾けた大雅は悠太郎にしか見せない柔らかな表情で微笑んだ。 「――俺、ずっと好きだった。大雅のこと……あ、あい……」 「あい……。なんだ?」  何かを期待するような大雅の視線に、悠太郎は顔を真っ赤にしてプイッと背けた。肝心な時に限って虚勢を張ってしまう悪い癖……。 しかし、それを見抜くかのように大雅の指先が彼の顎を持ち上げたことで、無駄な抵抗だったと気づく。 「悠……。俺に隠し事は許さないぞ」 「隠し事なんてない! 俺はただ……お前を……愛してるって言いたいだけ――あ……っ」  まんまと大雅に誘導される形で告白してしまった悠太郎は、熱くなった頬を隠そうと暴れてみたが、ガッシリと掴まれた顎から彼の手が離れることはなかった。 「放せっ」  照れ隠しにムッとした顔で睨みつけた悠太郎だったが、いまさらそんな顔が大雅に通用するはずもなく、呆気なく唇を奪われた。  歯列をなぞる様に動く大雅の舌に、悠太郎の身体の力が奪われていく。腰の奥の方でムズリと疼くのは、間違いなく大雅を求めている証拠だ。  濡れた唇を触れ合わせたまま、何かを思い出したかのように大雅が口元を綻ばせて低い声で囁いた。 「お前に送ったメール……」  大雅に没収されたスマートフォンの中に入ったままの未読メール。  その文面を読まなかったことを大雅は責めた。彼にとっても悠太郎にとっても大事なことが書かれていたであろう内容は未だ秘密にされていた。 「教えてよ……」  何かを言いかけてふと口を噤んだ大雅はわずかに目を伏せた。 「――今さらだな……と思ってさ」 「ズルいぞ! 俺はちゃんと言ったからなっ」  咬みつく悠太郎の身体を引き寄せた大雅は、彼の足の間に自分の足を滑り込ませると意地悪げに笑った。  乱れた前髪の間から覗いた切れ長の瞳が妖しい光を湛える。野性味のあるその目に射られた悠太郎は息を呑んだままその動きを止めた。 「――え?」  悠太郎の脚の付け根に感じる質量と熱。それはスラックスの生地を通してもハッキリと知ることが出来た。  大雅の想いを顕著に表すように膨らんだその場所を押し当てられ、言葉を失った悠太郎は視線を彷徨わせた。 「悠……」  吐息交じりに耳元に響いた声は今まで以上の艶を含んでいた。  先程のキスですでに兆し始めていた悠太郎のモノを腿で押し上げるようにした大雅は、耳元に唇を寄せて言った。 「したい……。お前を俺のモノだけにしたい」 「な、なに言ってんだよっ。怪我人は大人しく――んんっ!」  悠太郎が発する言葉を奪うかのように、大雅は噛みつくように唇を重ねた。  社長室でされた乱暴なキスとはまるで違う。貪欲ではあるが、そこには彼の気遣いが感じられた。  自然と漏れてしまう吐息を楽しむかのように、大雅は悠太郎の舌を優しく愛撫する。  呑みきれなくなった互いの唾液が悠太郎の唇の端から溢れ、つつっと流れ落ちたのを見計らったかのように、大雅は悠太郎の身体を軽々と抱き上げ、乱暴に履いていた靴を脱ぎ捨てると大股で廊下を進み、初めからそこを目指していたかのように目の前のドアを開けた。  薄暗い部屋の中央に置かれたダブルベッド――そう、そこは大雅の寝室。綺麗に掃除がなされ、メイキングも完璧に済んでいた。 「大雅……っ」 「大切な初夜だ。ちょっとはお姫様らしくしろ」 「誰がお姫様だ! 俺は――うわっ!」  ベッドの上に放り投げられた悠太郎は、淡々とした動きで上着を脱ぎ始めた大雅を見上げて後ずさった。  あんなに憧れていた大雅とのセックス。だが、野獣と化した彼にはもう雰囲気を考える余裕などないのだろう。  警備員の制服姿のままヘッドボードに背中を押し付けた悠太郎は、ネクタイを引き抜きワイシャツのボタンを外した大雅を見つめる事しか出来なかった。引き締まった身体は綺麗な筋肉に覆われ、腹筋も見事に割れている。改めて見せつけられた大雅の雄々しさに息を呑んだまま呆然とする悠太郎に、彼はゆっくりとその間を詰めるようにベッドに膝をついた。  そして――。  悠太郎の手を乱暴に掴み寄せると、その甲に唇を寄せて目を伏せた。 「――騎士(ナイト)として貴方を一生守り抜くことをここに誓う。貴方を愛し、死ぬまで共に……」 「は?」 「ここに永遠(とわ)の誓いを……。さぁ、姫君っ」 「な、なに言ってんだよ! 大雅……おいっ」  いきなり押し倒された悠太郎はすぐ真上にある大雅を見つめた。乱れ落ちた長い前髪が彼の端正な顔をより野性的に見せる。 「悠……」  ゾクリと全身に甘い痺れが走る。艶を帯びた大雅の声に、悠太郎は目を潤ませた。 「この俺に……愛の力をください。どんな恐怖にも負けない強い力を……」  その言葉には大雅の想いのすべてが込められていた。一語一語ゆっくりと、丁寧に発せられる誓いの言葉。  息をすることも忘れるほど大雅の美しく真剣な眼差しに、さっきまでの道化もまんざらでもないなという気持ちになってくる。  悠太郎は緊張で渇いた喉に唾を流し込んだ。  そっと両手を伸ばして大雅の頬を包み込むと、幼い頃からずっと憧れていた唯一無二の騎士(ナイト)に微笑んだ。 「愛しています……」  どちらからともなく重なった唇。その熱さに悠太郎は溢れてくる涙を止めることが出来なかった。  互いに、ずっとずっと心の奥に仕舞い込んでいた想い。それが一つに重なり、自身を苦しめてきた『幼馴染』という枠が消えた。  今日からは『恋人』として共に手を繋いで歩いていける。その喜びに胸を震わせながら悠太郎は大雅の手にすべてを委ねた。

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