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1親愛と恋愛の境目は

 少し前から、彼のことが気になっていた。  まだ幼いのにいつもただ一人で、芥川龍之介だったり太宰治だったりを公園のベンチに座って読んでいたから、それもある。  幼くてまだ未成熟にも関わらず、触れたら壊れてしまいそうなほど華奢で刹那的な綺麗さと、天使のような神秘的な美しさを持っていたから、それもある。  でも私は、何よりも彼の『目』が気になっていた。その目は、子供なのに疲れ切って全てを悟った老人のようで、その実何も写していないガラス玉のようだった。その目は、とても虚しくて、ぞっとするほど綺麗な瞳だった。  そんな印象が変わったのは、私が初めて彼に話しかけた時。 「何、読んでるの?」  私がそう聞くと、彼は無言で表紙を見せた。題名は夢十夜で、作者は夏目漱石。昔私が、本の天地が擦り切れるほどに読んだ本だった。 「ああ、知ってるよそれ。面白いよね」  私が言うと、彼はガラス玉に疑念の色を少し滲ませた。 「――死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」  夢十夜の第一夜の一節、女が云う台詞を口ずさむと、彼はガラス玉に僅かな光を灯した。 「知ってるんですか」 「知ってるよ。何度も読み返したせいで、覚えちゃったくらい」  すると彼は、ガラス玉を年相応の輝く瞳に変えた。そうだ、子供は元来そういう輝いた目をするものだ。 「他に、読んだことのある本ってありますか?」 「そうだなぁ、日本文学はあらかた読んだことがあると思うよ。海外のも、それなりに」  彼はそれを聞いて、ぽつりと呟いた。 「精神的な向上心のない者は馬鹿だ」 「夏目漱石のこころ、だろう? そしてそれは、先生の親友であるKの口癖で、同時にKを自殺に追い込んだ台詞」  すると彼は楽しくなってきたのか、次々に続けた。 「尼寺へ行け」 「シェイクスピアのハムレット」 「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」 「太宰治の斜陽」 「とにかく、新しい毎日なんだ」 「ヘミングウェイの老人と海」  私は何も言わずに感嘆した。――それはどれも、この年齢の子供が読んで内容が理解できるほどの本ではないからだ。天才か、英才教育の結果か、それとも本しか娯楽がなかったのか。  そこまでやり取りしてからふと彼を見ると、彼は少し驚いたように僕を見ていた。 「よく知ってますね」 「文学は好きなんだ。君も?」  そう問いかけると、彼は初めて僅かに笑った。それは、月並みな表現だが花が綻んだような、雲の切れ間から輝く陽光が覗いたような、そんな笑顔だった。 「はい」  私はきっと、その笑顔に魅せられてしまったんだろう。それが、彼に恋をしたきっかけだった。

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