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7歪み狂った愛の形
秀が最後に病室に来てから、半年ほど経った。
抗がん治療をしているにも関わらず、僕の容態は悪化する一方だった。倦怠感、肩や背中の痛みなどが酷くなった。どうやら僕のがん細胞は全身の骨にも転移しているらしい。
息をする時、物を飲み込む時にも激痛が走るため、酸素マスクをして点滴のみで栄養を摂っていた。
もう治る見込みはないらしく、余命もあと数年と宣告された。だから抗がん剤を中止し、緩和ケアに切り替えた。
もう生きるのを諦めていてもおかしくはなかった。だけど僕には、守らなければいけない秀の言葉があった。だから必死に、その言葉を守るまでは生きなければいけなかった。――でもそれも、今日で終わりだ。
「……すみません、この封筒を、この住所に、郵送してくれませんか」
点滴を取り替えに来た看護師に、僕は厚い茶封筒と住所を記した紙を渡した。住所は茶封筒の中身を全部書き終わってから書いたからだろうか、手が震えて、文字は何とか読める程度だった。
看護師は怪訝そうな顔をして、それでも分かりました、と答えて部屋を出て行った。
すると入れ替わるように、先生が部屋に入って来た。茶封筒を持った看護師を不思議そうに見て、僕の近くの椅子に腰掛けて、問いかけた。
「凪斗君、あれ何?」
僕はただ、微笑んだ。先生は腑に落ちない顔をしながらも、追求はしなかった。
そして、愛しげに僕の頭を撫でた。半年前と変わらなかった。僕の髪が、抗がん剤で抜けてしまったので帽子を被っていたこと以外。
「先生、僕と、屋上に行きませんか」
その茶封筒を看護師に渡したら、先生を屋上に誘うと決めていた。僕の頼みを先生が断らないだろうことも分かっていた。
案の定、先生は断らずに頷いて微笑んだ。力が入らなかったので車椅子に乗せてもらい、動くのに邪魔な酸素マスクも点滴も尿道カテーテルも引き抜いて床に放り投げた。
先生が驚愕したように目を見開いていたが、行きましょう、と僕が囁くと、それでも車椅子を押してくれた。
「凪斗君、痛くない?」
「痛い、です」
屋上に上がってから、先生は不安げに問いかけた。僕が答えると、そうだよね、と痛ましげに呟き、また問いかけた。
「よかったの? 全部取っちゃって」
僕はそれに答えず、先生の方を振り向いて話し出した。息をするのも痛いくらいだ、話すだけでも相当辛かったが、それでも話した。話さなくてはいけなかったのだ。
「先生、以前、二人しかいない世界が、あったとしたら、そこへ行きたい、って、言ったじゃ、ないですか」
疑問気に首を捻ったが、先生はそれでも首肯した。
「僕、そこへ行く、方法が、分かったんです」
先生はまんじりともせずに僕を見つめていた。僕が言わんとしていることを悟ったのだろうか。
僕は確かめるために、解りきったことを尋ねた。
「先生、僕のこと、愛して、ますか?」
「当たり前だよ。君のためなら私が持っているものをすべて捨てても惜しくないくらい」
その答えが来るのは分かっていた。予想通りの答えだったので僕は笑って、頭上の空を仰いだ。
空は果てしなく青くて、どこまでもその色が広がっていた。何にも喩えられないその青さを見て、僕はふと、昔高校の国語教師が言った言葉を思い出した。
「語彙力があるというのはそれだけ、多くの世界を捉えられる、ということです。例えば、語彙力がない人が青空を見ても『青い』の一言で終わってしまいます。ですが、語彙力がある人が青空を見たら、様々な捉え方ができます。
例えば、『笑いたくなるような青空』。例えば、『泣きたくなるような青空』。例えば、『死にたくなるような青空』」
その教師はその後「死にたくなるような青空って何だか怖いですね」そう自分で突っ込んで笑いを取り、それきり周りはその話を忘れてしまったようだが、僕はどうしても忘れられなかった。
彼の言いたいことが、その言葉に滲み出てきたように感じたのもあったし、死にたくなるような青空がよく分からなかったのもあった。
だが、僕は今『死にたくなるような青空』を理解したような気がした。僕の儚い十数年の生涯に比べて、その青色はあまりにも壮大で美しくて――なるほどこれは、死にたくなるような青空だ。
その青色は、決してちっぽけな自分の存在を否定するのではなく、生も死も、何もかもをすべて抱擁するかのような色だった。
だから僕は、少しの間空を眺めると、もう一度先生の方を振り向き、ぽつりと呟いた。
「なら、先生。僕と、心中して、くれま、せんか」
先生は予想していたかのように笑って、頷いた。
「何となく、そう言われる気がしたんだ」
そして先生は、車椅子を柵ぎりぎりのところまで、エアコンの室外機のすぐ側まで押して停めた。
その後、掴まってて、と言って僕をお姫様抱っこし、首に掴まらせてから室外機に上った。それを踏み台にしてゆっくりと慎重に真っ白な柵を乗り越えた。
脚を支えていない片手で柵を乗り越えているので、先生は僅かに辛そうに顔を歪めていた。
柵のない方向に背を向けて乗り越え終わると、先生は囁いた。
「愛してるよ、凪斗君」
その言葉に、先生は人生の全てを込めたような気がした。だから僕も笑って、囁いた。
「僕も、です、嵐先生」
先生はいつものように、愛しげに微笑むと瞳を閉じ、徐に唇を重ねた。だから僕も、瞳を閉じた。
体の痛みも倦怠感も、慢性的に悩まされていた虚無感も、全てが青空に溶けていくような気がした。その後、体が浮くような浮遊感を感じ、次いで風を感じた。
――そうして僕らは青空を舞い落ちながら、狂い合った愛を抱え、二人だけの世界へと旅立った。
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