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3-性的魅力とその弊害についての考察(8)
俺がココア好きなのを知ってから、悠さんは家にココアパウダーを常備してくれている。
悠さんを家に送ったあと、俺が帰る前にたまにココアを作って飲むのは、ちょっとした二人の憩いの時間だ。
俺たちの事だから、話す内容は多分に毒を含んではいるけれど。
それでも、今日の出来事を忌憚なく話して笑い合うのは心地が良かった。
ミルクを入れた小鍋を火にかけて、温める。ふつふつと小さく気泡がたってきたところで火を止め、ココアパウダーを入れたマグカップに少しずつ注ぎ入れながらスプーンでゆっくりと混ぜる。
悠さんは砂糖少なめ、俺のはたっぷり。
悠さんはカウンターに頬杖をついて、ココアを作る俺の手元をぼんやりと見ていた。
「どうしたんですか?」
「ん?」
「大人しく待ってるなんて珍しい」
頬杖をつく手を変えて、悠さんはぽつりと呟いた。
「どうしたら颯人がもとに戻るかなって、思って」
毒舌ワガママ王子らしからぬ発言だったが、俺はココアを溶く手を止めずに答えた。
「その気持ちだけで十分ありがたいですよ」
それでも悠さんは憂い顔をやめてくれない。
「そんなワケねぇだろ。手、震えてんぞ」
スプーンを握る手をつつかれて、俺は苦笑いした。
「駄目ですね。あんなことで動揺しちゃって」
「あんなことって……馬鹿やろ、大事だぞ。犯罪に遭ったんだぞ」
「ああ……そっか。そうですね。なんか、馴れちゃって」
「はあ?!」
俺の爆弾発言に悠さんが目を剥く。
他の人に言わないでくださいねと前置きして、俺はぽつりぽつりと過去の被害歴を語った。
電車に乗れば痴漢に遭い、夜道を歩けば路地裏か車内に引きずり込まれて強姦。夜遅くに帰宅すれば、ストーカーがレイプ魔に変貌する。
「な、そんなの……お前、警察は?」
「はじめの頃は行きましたけど……結局事後対応になっちゃうんですよね。そのうち、行っても無駄だなって思っちゃって」
諦め顔で自棄気味に笑う俺を見て、悠さんが不機嫌に眉を歪める。
「悠さんのピアノが唯一の救いだったんです」
本人の前で言うのは照れくさくて、そっぽを向いて俺は呟いた。
「酷い目に遭っても、家に帰ってふやけるまでお風呂に入って、あがったら熱いココアを冷ましながら悠さんの演奏を聴けば、汚れた体が少しきれいになる気がした」
「そんな……」
話を聞いている悠さんの方が悲痛な表情をしている。
そんな顔することないのに。俺はもう慣れてるから。
今回は怪我もしてないし、悠さんが脅してくれたから、あの二人はもう俺には手を出さないだろう。
大したことじゃない。な、そうだろ?
そう自分に言い聞かせて、震える手をそっと押さえた。
「ココア、できたか?」
「はい」
俺がマグカップを渡そうとすると、悠さんはそれをとどめてトレーを俺に寄越した。
「それ持ってついてこい。弾いてやるから」
悠さんの後について二階の一室に入ると、そこにはグランドピアノが置かれていた。
「何が聴きたい?」
蓋を開けて鍵盤を拭いながら、悠さんが聞く。
「何でもいいんですか?」
「おう。俺に弾けねぇ曲は無ぇよ」
俺はトレーを床に置きながら少し考えた。
「ラフマニノフの『音の絵』」
「いいぜ。……悪ぃな。椅子もなくて」
「大丈夫です」
トレーの横に腰を下ろし、自分のカップを手に取った。
悠さんはピアノの前に座ると、呼吸を整えてから弾き始めた。
ピアノから音が溢れだし、部屋の中が清い音の奔流で満たされる。
もちろん俺もあっという間に呑み込まれていった。
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