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5-泣かないで愛しいひと(10)
「颯人、飲みすぎたな」
不意に悠さんが俺の唇に触れた。
「え?そうですか?このカクテル美味しいから」
「もうおしまい」
悠さんが俺のグラスを奪い取って、一息に飲み干してしまった。
「言っただろ?酔うと色っぽくなるから駄目だって」
俺の濡れた唇を親指で拭って、悠さんはちょっと怒った顔をした。
「俺の言うこと聞けない奴は、家まで送るぞ」
「これくらい大丈夫ですよ。ふらついてもいないし。一人で帰れます」
「いや、絶対駄目。……だって俺がやばいもん」
潤んだ目で悠さんが言う。
「やばいって」
俺の耳元に唇を寄せて、囁いた。吐息が燃えるように熱い。
「抱きたくてしょうがねえ。颯人のその綺麗なツラめちゃくちゃに崩してみたくてたまんねぇ」
耳朶を舌がなぞる。
ワガママ王子はどこいった?
俺だって、格好よくていつになく優しい悠さんから目が離せないんだから。
俺のこと組み敷いたら、悠さんはどんな顔をするんだろうか。
そんなことを想像して思わず頬が熱くなった。
「ほら、ほっぺた熱いじゃねぇか」
悠さんが俺の頬に手の甲を添える。
「え、いや、これはですね、酔ったからじゃなくて……その……」
「ははん。やましいことでも考えたか?それとも俺に惚れ直したか?」
どっちも正解だけど、どっちも認めたくない!!
なんだか年齢が逆転したみたいだ。俺の方が掌の上で転がされている。
唇を噛んで、悠さんのスペシャルな王子様スマイルを睨みつける。
「くは。そんな目で見たって煽るだけだって。可愛いからやめてくれよ」
ああ。ここが店内じゃなかったら殴りつけた――いや、意地を張るのはやめよう。抱きつきたい。
行き場を失った情熱は、さらに頬を熱くする。
「……もう限界……。帰ろ?な……?」
耳元で囁かれて、俺は素直に頷いた。
店の外に出て、夜風に吹かれる。ちょうどいい気温で、風が頬に当たると気持ちがいい。
二人並んで駅に向かい、電車に乗る。
さっきとは違って、車内の混雑はそれほどひどくない。
乗車ドアにもたれて、言葉もなく見つめ合って車両の揺れに身を任せる。
あ、もう俺の最寄り駅に着いてしまう。
別れるのがどうしようもなく寂しくて、悠さんの指先をきゅっと握った。
握って、離して、「おやすみなさい」をして別れようとしたが、……悠さんが一緒に電車を降りてしまった。
「悠さん?悠さんの家はまだ先ですよね?」
「そうだけど。颯人を家まで送らないと」
くしゃっと髪を撫でて、先に階段を上がっていってしまう。
「そんな、すぐ近くだから大丈夫ですよ」
「すぐ近くなら送ってってもいいじゃん。こっちでいいのか?」
「そうですけど……本当に近いんですって。十分もかからないのに」
悠さんの後を追いかけて、駅を出る。
「もう。悠さん、私の言うこと聞いてくださいよ」
商店街を抜けて、少し広い道路の端を歩く。
「聞いてるぜ?でももうちょっと颯人と一緒にいたいんだよ。いいだろ?」
歩道を少し歩くと公園が見えてくる。その脇の道の突き当りに、アパートが見えている。
「ほら、もう着いちゃったじゃないですか」
「近すぎだよ。空気読めよ」
「そんなこと言われても。もう大丈夫ですから、ね?」
不満そうな悠さんは下唇を突き出してちょっと拗ねている。
「おやすみなさい」
「……はぁ。おやすみ」
悠さんが軽く身を屈めて俺にキスをした。
「ちょっと、往来ですよ。車走ってますよ」
思わずたしなめたが、悠さんにこたえた様子はない。
「一瞬だったろ。わかりゃしねぇよ」
「もう。帰ってください」
駅の方面に悠さんの背中を押しやる。
「じゃな」
軽く手を挙げて、悠さんは駅へ戻っていった。
何だかんだ言ったものの、俺もやっぱり少し寂しくて、その背中が見えなくなるまで見送った。
悠さんが見えなくなって、ため息を一つつく。
いや、寂しくないから!
自分に言い聞かせて、公園側へ道路を渡った。
公園も、時間によってはカップルでいっぱいなのだが、さすがにもうこの時間になると人気はない。
ぽつんぽつんとある電灯に照らされながら俺の家へ向かう。
あ、一個電灯が切れてる。最後の最後で灯りが途切れてちょっと暗い。
うちに帰ったらお風呂だな。髪にまでお好み焼きの香ばしい香りが残ってる。
そんなことを考えながらその薄暗闇に足を踏み入れた途端、後頭部に何かが当たって、意識が闇に落ちた。
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