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6-星が降る夜は(1)
今日は事務所で仕事の日だ。
三人ともイベントやリハーサル、打ち合わせ等の外出する用事がなく、池田音楽事務所はいつにない『事務所』感が出ている。
悠さんがいつも不法占拠している応接スペースでは、所長が今度のイベントの主宰と商談をしている。
聞こえてくる内容につい聞き耳をたてるが、悠さんが出る幕はなさそうだ。
桧山さんメインで話が進んでいる。
「あークソ、駄目だ駄目だ」
楽譜を眺めながら悠さんが入ってきた。珍しく苛立っている。
え、あれ、もしかして前見てないのか?
所長や来客に気づきもせず、棒アイス片手にまっすぐ応接スペースへ直行しようとする悠さんを、俺は慌てて止めた。
服の裾を掴んで、小さく囁く。
「悠さん、来客中です」
そのまま、できるだけ応接スペースから離れた場所へ連れていった。
「何すんだよ!あそこは俺の場所だぞ!」
「違います。お客様のためのスペースです」
不満そうに唇を尖らせる悠さんを宥める。
悠さんにもデスクはあるのだが、座っているところを一度も見たことがない。
俺のデスクの向かいにある席に無理やり悠さんを押し込む。
俺も席に戻ると、早速悠さんが文句を言い出した。
「狭い。椅子固い。足伸ばせねぇ」
「黙って座ってください。みんなその環境で仕事してるんです」
「はあぁ」
悠さんがこれ見よがしにため息をついてみせる。
「せっかく休憩しようと思って降りてきたのに、これじゃ休憩にならねぇ。上にいた方がまだマシだ」
「そのイラつきっぷりは、課題曲が思うように弾けないんだろ」
隣の桧山さんがからかう。
「るせぇ。俺に弾けない曲はねぇって言ってんだろ」
「そりゃ羨ましいな」
国際コンクールが近づいている。
第三次予選の課題曲が、よりによって悠さんの嫌いな曲らしい。
「弾けるぜ?完璧に楽譜通りに弾けるんだよ。ただ、俺が納得できねぇんだよ、この曲。なんか気持ちが入らねぇっていうか、これだ!っていう手ごたえがねぇんだよ」
とうとう作曲家に対して喧嘩を売り始めた。
「分かんねぇ?この気持ち」
「俺には分からないな」
「なんだよもう。冷てぇな吹雪は」
食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に捨て、悠さんはデスクをピアノに見立ててことことと叩き始めた。
メロディを小さく口ずさんでいる。
時折首をかしげているのが、納得できない部分なのだろうか。
ピアノのことで悩んでいる悠さんを初めて見た。
「あーあーあ!クソ、よーこー先生に相談してぇ。……そうか、イタコだ!青森行くぞ颯人。恐山だ!」
「馬鹿なこと言わないでください」
よっぽど参っているようだ。
「本番までまだまだ時間があるじゃないですか。それだけあれば悠さんなら弾きこなせるようになりますよ」
「えー。だって嫌いだもんよ、この曲。波長が合わねぇってか、趣味じゃねぇ」
「プロなんですから、そんなこと言わないでください。それとも辞退しますか?」
「やだ。賞金は欲しい」
「じゃあ、予選なんかで文句言ってないで優勝してください」
「うぁー」
悠さんは椅子の背もたれに寄りかかって天井を仰ぎ、頭を抱えた。
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