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9-スキ、キライ、スキ(11)
来たくなんか、なかったのに。
細く開いたドアの隙間から、二人の話し声が聞こえる。
絶対わざとだ。山岡さん、わざと開けてった。
「えーと、頼まれてたの、何だっけ?」
「五線紙と、リストの練習曲と、シューマンのピアノ協奏曲の楽譜。あとなんか適当な雑誌」
「あー、間違えたわ。ショパン持ってきた」
「ぅおい!」
「あと五線紙忘れた」
「馬鹿かテメーは」
久しく聞けなかったその声だけで泣きそうになる。
いとお……いや、何でもない。
「仮にも見舞い客に馬鹿はねーだろ」
「仮なのかよ。ったく相変わらず役に立たねーな。これだから良太は駄目なんだよ。つか雑誌って競馬雑誌かよ!読まねーよ!暇潰しにもならんわ!!」
「ちげーよ、競馬雑誌は俺の。やらねーよ」
「はぁ?!じゃあ持ってきたのショパンの譜面だけじゃねーか。頼んだもの一個もねえぞ!」
「残念だったな」
「あーもう!クソ、は」
悠さんが唐突に言葉を切って衣擦れの音に変わった。
「おいどうした、急に毛布ひっかぶって。何だよ、『は』って」
にやにやしながら山岡さんが言っているのが分かる。
「何でもねーよ!馬鹿野郎、帰れ!」
少しくぐもった声で悠さんが罵っている。
「へーいへい。じゃ、役立たずは帰りますわ」
山岡さんが立ち上がる気配。
「もうちっと寝ろよ。目の下にクマできてる」
「うるせぇ!余計なお世話だっつーの!」
山岡さんがこっちに来る。
「じゃ、次の方どーぞー」
「?!」
山岡さんが引戸を全開にしたから、陰に立ってた俺は悠さんから丸見えで、俺はその場に立ち尽くすしかなかった。
「は、やと」
悠さんが驚いてる。
まさか俺が本当に見舞いにくるなんて思ってもなかったんだろう。
俺は情けないことに声も出せない。
「ほれほれ、入った入った。じゃ、俺は先に帰るから。あとはごゆっくり」
俺を病室に押し込んでドアを閉め、山岡さんは去っていった。
「颯人?」
名前を呼ばれて、でも歩み寄る勇気がなくて、バッグを握りしめたまま立ち尽くしていた。
「しゃーねぇなー。……よっ、と」
悠さんが立ち上がって、俺の方にふらふらと歩いてこようとするから、バッグを放り出して駆け寄って、慌ててその体を抱き止めた。
「危ないですって」
「これくらいへーき……いてて」
悠さんが腹を押さえて体を折り曲げる。
「ほら、もう!」
「なーんて、な」
顔を上げた悠さんはけろっとして笑って見せた。
王子様スマイルじゃなくて、真夏の向日葵みたいな笑顔。
眩しくて暖かい、……俺の大好きな笑顔。
「……だから来たくなかったんです」
「うん?」
「まだ私、怒ってるんですよ?でも、来たら、もう一度悠さんの笑顔見たら、絶対全部赦してしまうから。だから来たくなかったんです」
悠さんが目をみはる。
「赦してくれんの?」
「もう二度とあんな当てつけるようなことしないなら」
「絶対しない!よーこー先生に誓って二度としない」
悠さんは真面目な顔で言った。
「じゃあ、あれは無かったことでいいです」
久しぶりのキスをして、好きだよ、ずっと会いたかったって耳許で囁かれて、ぎゅっと抱きしめ合って、二人で泣いて笑った。
やっぱり、ワガママでも、俺は悠さんが好きだ。
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