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第2話
――弐――
嘉翔が訪ねて来て以降、六部にはまことしやかに囁かれる噂があった。
それは「戸部の幽霊校書郎」についてだ。
嘉翔が訪ねた後、三年近く経って「幽霊校書郎」が「幽霊書郎」になっても噂は消えない。
「あの嘉翔の双子の兄だ、姿を見せないのは男ばかりの六部の中でその美貌が噂になりたくないからなのではないか」
「街では嘉翔は隠の性ではないかと噂になっている。兄である考賢さまももしかしたら隠の性なのではないか」
「いやいや、嘉翔どのはあれでとてつもなく剣の腕が立つそうだ。廷尉から申言を受けた軍部が雇傭したいと雇い主の薬屋を伝って申し入れたがけんもほろろに断られたとか。それほどの剛の者であれば隠ではなく是なのではないか」
「では余程母親が美しいのであろう…きっと考賢さまも似てるに違いない」
「俺は、戸部尚書の蘇見浄 さまが考賢さまを独り占めしたくて部屋に閉じ込めていると聞いたぞ」
「では、考賢さまは見浄さまの……」
「いやいや見浄さまにはとても美しい奥方が……」
「そもそも考賢さまを戸部に配属したのは皇帝陛下との噂じゃないか?」
「もしかして……」
どんな時代でも人の口に戸は立てられないし、噂は退屈な日常の娯楽である。
そんな口さがない男たちの噂話の横を通り過ぎ、食堂の奥へと急ぐ姿があった。
「よう、公研 。今日も見浄さまのお使いか?」
公研と呼ばれた男はびくりと体を震わせながら立ち止まる。
噂の書郎さまと同じ音の名前にザッと視線が集まったが、その姿を見てすぐに視線は離れた。
「ああ、戸部の茶筒が空になるからね。ついでに菓子も貰ってこいと頼まれてる」
もごもごと小さい声で受け答えする公研に、声を掛けた男は気にするでもなくガハハと笑って話を続ける。
「ちょうど良かった、今 戸部の噂話をしていたんだ。お前 戸部だったよな?何か噂の真相知らねえか?」
腰に下げた剣を見るに軍部の所属だろうこの男の、わざとではない生来の大声に食堂に居合わせたほぼ全ての人間が再び一斉に公研を注目した。
「う、噂って?」
「例の幽霊書郎さまだよ。顔見たことあるのか?」
小さい公研の声は周囲の人間には聞こえないが、男の声は聞こえるから会話の内容を推測することは出来た。
「…いや……僕は下っ端だから…」
周囲の視線に大きくない体を縮こまらせて、やっとの思いで公研は返事をする。
「そうか、じゃあしゃあねえな。ところでお前ちゃんと飯食ってんのか?」
返事は聞こえなかったが男の話題が次に移ったことで、目新しい情報はないと悟った周囲の視線は一斉に公研から離れる。ほぅっと体の緊張を解くため息をついて公研は男に向き直った。
「食べてるよ。前にも言っただろ、僕はこのくらいが普通なんだ」
ガリガリと称しても差し支えないほどの細い腕、こけたように肉の無い頬、お仕着せの官服を何枚も着込んだ公研の姿は初夏の六部にあってよくよく見たら異様なものであった。
「暑いのにまたそんなに着込んで……お前よくこれで倒れねーの?」
男は重なった服の袖を数える。同じ服を重ねているからぱっと見判らないが、数えると五枚もの服を公研は重ね着していた。
「それも前に話したじゃないか、小さいころから体温調節が苦手なんだ」
話を聞いた男はそうだったそうだった!と相槌を打ち、申し訳なさそうに頭を掻いた。
男はそのままちょっと待ってろと公研を手近な椅子に座らせ、自分は厨房の小母さんへと足を向かわせ注文をする。
ちょうど飯時で作り置きに余裕があったのか、男はすぐさま包みを持って公研の元へと戻ってきた。
「ほら、これも持って行け。時間のある時に食べろ」
足止めした詫びだと差し出され、断る理由もなく公研は大人しく受け取る。
「別に二つ小分けにして貰ってるから一つは見浄さまに足止めの詫びって伝えといて。あともう一つは考賢さまに付け届け」
「見浄さまはいいとして、考賢さまに渡せなかったら?」
「そん時はお前が食えばいい」
「わかった」
別れに手を振る男に深々と礼をして、公研と呼ばれた男は食堂を後にした。
「おう、戻ったか」
「はい。じゃあ僕はまた自室に籠りますね」
戸部に戻った公研は棟の奥の部屋へと一直線に伺い、その部屋の奥の立派な椅子に座る男に一礼をする。
礼を受けた男は行け行けと猫でも追いやるように手を払った。
「あ、そうだ。これ、僕の足止めをした礼だそうです」
茶筒と菓子の他に抱えてた包みを書類を避けるように置き、手早く解いた。
包みの中身は包子に甘辛く似た豚肉を挟んだ食堂の名物で、小分けにされた二つの他に十も入っている。
軍部の男は見た目の通り食の細い公研に 十も包子を食べさせるつもりだったのだ。
「足止め?何かあったのか」
怪訝な顔で見る男に、公研は困ったような顔で答える。
「例の噂話ですよ。以前うっかり足を挫いて軍部の人間に送って貰ったことがあったでしょう?あの男に"幽霊書郎さま"について何か知らないのかと捕まりまして…」
事の次第と手短に奏上する途中で、男は盛大に吹き出した。
「それは、それはっ…大変 だったな…」
ヒィヒィと笑い息継ぎをするように言葉を切りながら男は声を掛ける。
その横で別の男が安堵に肩を落としていた。手には貰った包子。椅子の男が吹き出すことを察知して慌てて手を伸ばし持ってた書類で男の唾から包子を守ると、すぐさま掻っ攫って猶の被害から包子を救ったのである。
「ええ、ではこっちの包みを一つ戴いて部屋に戻ります」
男の笑いに不快そうに眉を寄せたまま、公研はもう一人の男から包みをひとつ受け取る。
「なんだ、ひとつでいいのか?」
まだくつくつと笑いの収まらない男が、もう一つの包みを指さす。
「もう一つの包みは見浄さまにだそうですよ。見浄さまに一つ、僕に一つ、後は全部僕が食えと」
公研の不思議な言い回しにも、見浄と呼ばれた男はニヤニヤとした顔を崩さない。
「じゃあそれ全部持って行け」
「嫌ですよ。僕が小食なのは知ってるでしょう」
もう一つの包みを言われたように見浄の前に置き、残りの包子を抱えた男に公研は他の官士に分けるよう頭を下げた。
「そうそう考賢、新しい帳簿が上がってきたから部屋に届けさせてる。どうにも帳尻がおかしい気がすると下からの注釈付きだ」
その言葉に公研はパッと目を輝かせた。
「それをもっと早く言ってくださいよ!では僕はこれにて!」
上司への礼もそこそこに、考賢は飛ぶように早く自室へと戻って行った。
要はカンタンな話である。
以前足を挫いた考賢をたまたま通り掛かった男が背負って戸部まで送ってやった事があった。
男に名を聞かれて考賢は素直に自分の名を答えたのだが、その時には既に"美貌の幽霊中書郎さま"の噂は誰もが知るところで、噂(主に嘉翔の容貌を元に脚色された考賢)とはかけ離れたガリガリで見習の子供のような姿に同音のコウケンだと男が勘違いしたのだ。
「あんな素敵な人と同じ名前だと、さぞかし大変だろう」
そう言われた考賢はその勘違いを訂正することなく、わざと違う字を思いつきで付け足したのだった。
本物の考賢書郎は、確かに基本自室に籠りっきりである。
数字と帳簿が大好きで、特に無理やり帳尻を合わせられた帳簿から不正が無いかつぶさに調べて解き明かすことが大好きな変人。それが本当の考賢の姿だった。
財務を預かる戸部の中でも特殊な存在だったが、考賢が戸部に仕えるようになってから次々と不正や緩すぎた金の流れが正され国庫の財政が徐々に豊かになっていった。
最初こそ同期や先輩から個室を与えられたことをやっかまれもしたが、三月もすれば誰も異を唱える者はいなくなった。三月で帳簿の齟齬から戻された金は上級役人一人の年収を超え、一年も経てば国庫に余裕が生まれたと言うのだからその働きは本物だ。
考賢の噂の中で皇帝陛下直々に戸部への配属が決まった話があるが、これは半分本当で半分間違いだ。
考賢の数学に対する奇才を見抜いた蘇見浄尚書が皇帝へ配属を直訴し、その際に国庫を立て直す事を見浄が皇帝へ約束したのだ。
なので皇帝が配属を支持したことは間違いではないが、噂に伝わる「国庫を立て直せ」と言ったのは間違いである。
そうそう、幽霊書郎と名高い考賢のその他の噂で 一つだけ正しい噂がある。
美貌の書郎、否。
蘇見浄尚書の囲われ者、否。
弟の嘉翔は隠の性、否。
考賢は隠の性、合。
<<続く>>
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