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第3話

――――  三省六部の戸部に勤める孝賢は「隠」の性である。  幼少の頃より賢く、国東の村に居ながらその優秀さは帝都にまで届く成績で、当然のように「是」の顕現を嘱望された子供だった。  十四歳を超えた歳から受験可能な国試に一発合格した考賢は、性が定まる前に六部へ仕えることになった。  その弟の嘉翔は実は「是」の性である。  幼少の頃より美しかった嘉翔はその美しさを憐れまれた。この子はきっと「隠」であろうと親ですら悲観した。特に「隠」である母親の悲しみは深く、どうにかその相貌を隠して過ごせるよう、わざと髪の毛をボサボサに育てたり、夏の暑い日に外に出して肌を焼かせてみたりした。  それでも長じるにつれて隠せないと悟ると、せめて自分の身は自分で守れるようにと剣術の師を付けた。  兄は父似、弟は母似。顔の似ていない双子ではあったが兄弟仲は大変睦まじかった。  小さい頃から兄が出かけようとすると弟はどこにでもついて回り、兄もそんな弟を手を繋いで連れまわした。  兄が四つになる前に通い出した書院(ガッコウ)には、弟もついていった。  六つになるころ、母の勧めで兄弟は剣術の師がつくことになった。  兄も一緒でないと厭だと駄々を捏ねた弟のために、母は小さい兄に手をついてまで一緒に教えを受けるよう願った。母の只ならぬ気配に兄は気圧されるように承諾した。  だが、残念なことに兄には剣術の才能が皆無であった。  逆に弟はめきめきとその才能を開花させ、瞬く間にそこいらの者では相手にならない程の腕となった。その頃には弟も兄が同行せずとも駄々を捏ねなくなり、兄は早々に剣の道を辞した。  弟が剣の腕を磨いてる間、兄は好きな数学に没頭するようになっていった。  同い年の書院生が解く問題の数年先を行き、十の歳になるころには一人だけ帝都から取り寄せた問題を解くようになった。  最初は弟の居ない余暇に進めていたものだったが 徐々に数学に割く時間が長くなり、弟が剣術から帰った後も没頭したままになる。  最初は不貞腐れていた弟に、時間が余るのなら…と母は薬学の知識を身に着けるように申し付けた。  双子の母は「隠」の女だった。 「隠」性はそれだけで価値があるとされ、「是」を生む率が高いことから「是胎」と呼ぶ地域もあるほどだ。  裕福な家に生まれた母もやはり子供のころから美しく、万が一にも危害を加えられる事の無いよう 家の奥で大切に育てられた。  その家で師を付けて学ばされたことが薬学である。 「隠」の性において、薬は切っても切れない物であった。 ある薬は体香を薄く保ち、ある薬は偽妊娠を誘発させて飲み続ける間体香自体を発さないようにすることが出来た。  将来顕現するであろう性に向けて、母は手ずから薬学の知識を弟に授けた。  兄が十四で帝都へと出仕することになった時、既に弟は「是」の性を顕現していた。  弟が「是」の性を顕現させた時、誰よりも母が驚いた。 「よかった。本当によかった」と泣いて喜ぶ母の姿は今でも兄弟の胸に焼き付いている。  弟はそのまま薬学の道を志し、書院を卒業した後は藩一番の薬屋へと進むことが決まっていた。  その頃には剣の腕も藩一番の達人と謳われ、美しい少年へと成長した嘉翔を誰もつけ狙おうとはしなかった。  帝都へと出立する考賢に、嘉翔はその手を取って誓ったのだ。 「俺もいずれ帝都へ行く。この藩の…否、縣の薬草を学び尽くしたらすぐにでも帝都へ行くから!待っててね考賢!」  美しい兄弟愛。しかも「隠」だと悲観された弟は「是」で、国試を経て将来を約束された兄もそのうち「是」を顕現させるだろう。「是」の双子、謝の家だけでなく帝都へ出仕した考賢が官位を得れば生家の村には恩賞が出る。考賢の知能ではいずれ官位を賜ることは当然と疑う者のない村では、これで村全体が安泰だと誰もが謝家に感謝した。  考賢の性が顕現したのは、村を出てから二年以上も経った頃である。  出仕して三年間、見習官士は半年ずつ各部を回って適性を見極める。その明晰な頭脳を持っても向き不向きはあり、五つめの出仕先となった軍部は考賢を持て余していた。  そんな中で考賢は少しでも役に立つよう、過去の戦役での陣組みやその内容、天候と戦地の相性など得意な数式を用いて理論的に解明しようと藻掻いた。  その日も、考賢は過去の戦について調べようと書庫の奥で書物を探していた。 「暑いな……」   もうじき夏を迎える日差しは強く、窓の少ない書庫は蒸されて更に庫内の温度が高くなる時期だった。  どうせ今日もそんな日だろうと窓を見た考賢は、愕然と言葉を失う。  書物が風で飛ばないよう少ししか開けられていない窓の外は昼間だというのに薄暗い。差し込む風の湿っぽさに数刻のうちに雨が降るであろうと解る。  では何故、そんな天気の日に暑く感じるのか……。 「体調でも崩したのかな」  気付かぬうちに感冒に罹ったのかもしれない。そう結論付けると考賢は先ず窓を閉めに向かった。  雨が降ると判ってて書庫の窓を開けっ放しにする者は居ない。窓を閉めたら軍部書郎に体調不良を報告して今日は帰らせてもらおう。  四方にある窓を近いところから閉めて回り、一番奥の北の窓を閉めようと足を向けて数歩、考賢は体の震えに足を止めた。 ―――――どくんっ。  まるで体が心臓になったかのように大きく震える。跳ねると喩えた方が的確かも知れない。 「…いよいよ不味いぞ……」  感冒よりももっと悪い病かも知れぬ……そう予感しながら北の窓に向かう足が途中でもつれ、考賢は床に転がる。  転がって体が横になると、どくどくと大きく脈打つ血潮が鼓膜を震わせて知らせた。 「一体なんなんだ……誰か……」  生来大きくない考賢の声を聞き届ける者は居ない。元よりあまり人の出入りが無い書庫だ、同期が気を聞かせて呼びに来てくれればいいが、そうでなければ……と最悪の事態が頭を過ったその時、間延びした声が書庫に響いた。 「あー、やっぱりインのタイコウかー」  誰かと頭を巡らす余裕もなく倒れたままの考賢の頭を、太い腕が抱える。 「大丈夫……じゃねーな。お前、インの薬は持ってんのか?」  覗き込む髭面の言葉に考賢は思い当たる節が無い。そもそも「インの薬」なぞ聞いたこともない。  力無く首を振って答える考賢に、髭面は困ったような表情を浮かべた。 「立て…そうにもねーな。よし少し待ってろ」  髭面は着ていた上着を床に敷き、考賢をその上に寝かせた。  人を呼ぶのか書庫の外へと向かおうとする髭面の裾を引っ張り、やっとの思いで考賢は声を出す。 「…先に、窓を……雨 が降り ます……」  言われた髭面は不思議そうな顔をして、だが考賢の望むままに北の窓を閉めた。 「ああ、お前何処の官士だ?早退届けてやっから」 「…軍部 の…謝 考賢です……」 「わかった」  今度こそ髭面は書庫を出て、そして一刻も経たずに戻ってきた。手にはいっぱいの官服。 「お前、これを着込め」  髭面が持ってきた官服は正規官吏が身に纏う長目の袍、しかも何枚もある。  それを見留めて考賢は首を振る。 「暑いんです……熱が……」 「四の五の言うな。此処から無事に抜け出したいならこれを着るんだ」  言うが早いか 髭面は袍をあるだけ重ね、そのまま考賢に被せて簀巻きのように包み腰帯で固定する。 「よーし、いいぞ」  髭面の合図で数人の男が書庫へ入ってきた。その中で一番大柄な男が考賢を背負う。  書庫の外には駕籠が待機してあった。 「もう少し我慢しろよ。お前を俺の家に連れて行く、家に帰ればインの薬があるからな」  いよいよ朦朧とする意識の中でなんとなく連れて行かれることを理解する。 「お前は運がいいな。俺にはハンが居る、心配無いぞ」  ハンとはなんだろうかと言葉の意味を考えようとしたまま、考賢は意識を手放した。 「…お、本当に雨が降ってきた…」  髭面の声は考賢の意識には届いてなかった。 <<続く>>

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